「顔色うかがい」のすすめ?!
結論から言ってしまえば。
「だからどうした」と思えるようになった、ということであろう。
――そんな、神経が太くなった(笑)私自身の、これは「方針転換」の話である。
(ちょっと前までの自分は、「人様への顔色窺いはやめよう」というような方針だったと思う。)
つまり、「気にしないようにしよう」ではなく、「気にはする・留める」。
その上で、「他者に流されない」ということである。
いや、「気づかない」より、(多少疲れはするけど、)「気づく」人生のほうが、面白いのかも?と、思えるようになったのだ。
例えば、「人が気を悪くした」そのことには、気づかないより、やはり気づいたほうがいいと思う。
但し、「こちらが不機嫌を出せば、相手はこちらの思い通り動かしやすくなる」などという計算を(無意識も含め)した上で、あえて気を悪くしている様子を前面に出す人もまたいたりもするので。
で、そういうのは、「気づく」けど、余計な部分(と自分で思えるところ)までは「気にしない」。
相手のそういう「思惑」は、まんまと考慮して差し上げない。
(我ながら、性格悪い。笑)
――と、まあ、上記は一例に過ぎないが。
とにかく、なるべく「感覚を自ら意図して鈍らせず」「気づく」その上で、「他者に流されたり、引っ張られるのではなく、自分の頭で考えて、自分の感覚で判断しよう」ということである。
(――これもまた、まだまだ、私自身も「訓練途上」という感じではあるのだが。)
どんなに人見知りだろうが、人間嫌いだろうが。
山奥に籠って、とか、自給自足で、とか、そういう「完全に一人でこの世を生きていく」なんてことは、私には、どうせできないのである。
つまりは、「人の間でしか、私は生きていけない。」
と、なると。
「人」というものを、もっと面白がれたほうが、得ではあるのだろうと思う。
で、そう考えるならば、なるべくなら他者の「御機嫌」なり、「顔色」なり、その「心の中」なりは、よくよくよ~く、うかがいながら。
それらを敏感に感じとりながら。――その上で。
それでも、いちいちビビらず「平気で」生きていくし、「自分の判断を見失わず」やっていくほうが、日々は豊かになるし、面白いと思うのだ。
――「知らない」でいるより、「知る」をとる、というふうにも言えるかもしれない。
で、「知る」けれど、そのせいで「無駄には」、足元をフラつかせない、ということだ。
そうして、自分の、「ブレない根っこ」(あるいは「ブレない芯」とするなら、固いだけだともっと固いものにぶつかった時に折れるので、柔軟性を持った体幹が理想)を鍛えて強くしていくほうがいい。
「知らないことの(大雑把に言えばその無神経さがもたらす)強さ」というのもあるけれど。
私は「知ることによって、そこから得ていくような強さ」をとりたいと、この頃思うようになった。
と、そういうことなのだと思う。