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幸せに「される」とは言わないもんね

自分にとって幸せとは、
自分自身の手で、
材料集めから始めて、
それを組み立てたり編んだりしていく
そんな感じのものかもしれんな、と。


つまりは、
くじ引きの
「当たりはずれ」のようなものとは、
ちょっと違うのかもしれないな、と。

――幸せをイメージする時に、
世間の風潮としては
どちらかというと、
「当たりはずれ」の方を中心に
特徴づけして語られることが多くて。
(「全て外からやってくる」
というような、
それはイメージだろうか。)

何かうっかりそれにつられて、
前述の
「本来の自分の感覚」のほうも
ズレてしまいそうになる。

そうすると、
「雲をつかむ様な」幸せについての
その「違和感」ばかりが残る。


とはいえ、
幸せそうな人々を
やはりうらやんだりはしてしまうのだが(笑)。

でも、基本的に、
よくよく考えてみれば、
自分はどうしても
「自分は自分」型の人間なので。

――最後の最後は、
「自分のやり方や自分なりの筋を通す」
「自分の価値観や信念で生きる」
のが好きなのであるからして。

そうなるとどうしても
「他人は他人」となるはずだから。

幸せについて他人をうらやむこと自体が、
何かの間違いのもとなんだろうな、と思う。
自分の場合は。



そもそも。

幸せに
「なる」とか
「(誰かを)する」とかは言うけど。

「幸せにされる」って言わないもんね。


自分でなりたいんだったら、
ならんといかんのだ、
「自分で」。

――「うらやむ」は、その時、
自分みたいなタイプの人間には
全く参考にならんではないか。
(でも、ついつい
うらやむけどな。笑)


「未来側」の幸・不幸は、
今、手元にないから、
確かめようもない。

なので、
あんまりそれについて
考え過ぎることも
意味がない。


それなら、
「今現在」について、
自分はどうだろう??


――「今現在」の話だけで言えば。

それが
「本当に心の底からやりたくないこと」なら、
やらなければいいだけ、
すぐやめちゃえばいいだけの話で。


でも、
「これまで、日々続けていること」は
概して
「結果的に自分で選んでいること」だったり、
更には、
「それができて実はうれしいこと」も
多分に含まれているじゃないかと思う。

(繰り返しから当たり前になり過ぎて、
そういうことって、
「うれしい」に気づかなくも
なりがちなんだけど。)

(あるいは、
「ある一つのこと」について、
それを天秤にかけてみると、
どちらも含んであるけれど、
「うれしくない」よりかは「うれしい」が大きい、
ということもあるだろうし。
――それがたとえ僅差だとしても、
プラスマイナスすれば、
やはりそれもまた
「幸せ」を「得ている」ことにはなるのだ。)

つまりは。

何から何まで、すべてのことが、
「当たり前ではない」前提で。

偶には
よくよくよ~く精査してみると
いいのかもしれない。

(と、いうわけで、
今回も、
あくまで自分の場合の話。
――他人様の事は知らない。笑)