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どうせなら今いるこの世界を愛せるように

どうせなら、
自分が今いるこの世界を
愛せるように。

厭なものについては
厭だと認識し、
不快なものは
不快だとはじく。
――つまり
それらのものを、
自分の心の中にまでは
立ち入らせない意識を持つこともまた、
必要なことなのだと思う。


例えば「暴力」然り、
例えば「人を陥れる嘘」然り。

(それはたとえ「一時的」だとしても、)
それらを「受け入れる」こととか、
それらに「目をつぶる」ことが、
「善行」や「やさしい心」ではないと
私は思う。
(これ、意外とうっかりしがちなのである。)

(その点で私は、
「これは拒むべきものだ」と感じる、
「感覚」なり「倫理」なりの
自分のその「センサー」を
ある程度信頼している。
――無論それは
「絶対的」「普遍的」なものではなく
新たな考えからいくらでも
変わっていきもするのだが。
しかし、
今の自分自身のそれを基準にせずに、
「今現在の自分の世界」を
どうやって守ることができるだろう?)

(話を戻して、)
悪いことも、醜いことも、
「どうしようもなく存在する」のが
この世界なのであるが、
同時に、
それらに、直面まではしたとしても、
自らの心の中まで浸食されることはない。

可能なかぎり、それらは、
逃げたり除けたり避けたりしても
いいものなのである。
(意識的にそうするべきだ。)

繰り返しになるが、
私は、
自分が今いる
(たぶん今しかいることのできない)
この世界を、
せっかくならやはり、
愛したいと思っている。

だから、
「この世界を
嫌いになってしまいそうな要素は排除する」

つまり、
「嫌いなものは嫌いなのだ」
として、
「断固拒否」する心は、
大事にしていきたい、と思っている。

(言うまでもなく、
「それらを全部片端から
必ずあからさまに態度に出せ」
と言っているわけではなく、
多分、これを読んでいる皆様は
概ね「大人」がほとんどだと思いますので、
そこら辺は無駄に揉めないように、
うまくやりましょう。笑)

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