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「沈黙の身体」と「ワガママな自分」

例えば。
胃が痛みだして初めて
胃という臓器の存在を思い出し。

指を怪我して初めて
指が普段こなしてくれている
仕事量を思い知り。

視力が衰えて初めて、
視力というもののありがたみを知る。

……うむ。

概して、自分の身体は、
「忍耐強い」ほうだと思う。

不平不満を述べることもなく、
黙って「酷使」にも
これまで耐え続けてくれて来た。


歳をとったせいか、
私自身も最近では
随分と図々しくもなり(笑)、
「お人好しはやめる」なんてことも
ぬけぬけと口にするようにもなってきた。

無理なことは無理、
できないものはできません、
そんなことを
平気で言うようになり。

――でも、
これでいいのではないか?とも
思っていたりする。


私の身体のほうも、
私に、
これまでのような
「お人好し」は
だんだんとしてくれなくなってきた。

――そう、だから、
これまたこれでいいのだ、と、
私は思っている。


黙って耐えていたら、
わからないのだ、
人というものは。

だから、
自分の「身体自身」が、
私に対して
「我慢」しなくなって
「自己主張」をしてくれるようになって
よかったと思っている。




「もっとこう扱ってほしい」

「大切にしてくれないと!
替えの部品はないのだから」

「これじゃいつまでたっても回復しない」

……耳を傾けてみれば、
当然の主張、
ごもっともなことばかりではないか。



私自身と違って、
身体は、
「ワガママ」を
言っているわけではないのだ。

ひたすら、
身体なりの最善を尽くして、
生命活動維持に、
黙って、しかし休むこともなく
勤しんでくれてきたわけだ。
――本当に、
私の身体は私自身と違って
「勤勉」なのである。

で、また、
このことについて、
「身体が私のために頑張ってくれている」
なんて、
いけしゃあしゃあと思うことすら、
傲慢以外の何物でもない気がしてくる。

――「何でも言うことを聞いてくれる」
なんて思って、
平然と「ワガママ放題」して
困らせ無理させていたのは
他でもない、オマエだろ!!
と、突っ込まざるを得ない。


私は、私の身体に、
「居候」させてもらっているに
過ぎないのにもかかわらず。
――この身体がなければ、
私は、
この「現実世界」に、
存在することすら
叶わないわけだから。(多分。)



こんなふうに
「好き勝手なこと」を
やらせてもらえているのも、
他の何でもなく、
まず自分の身体あってのおかげだ。

――文字通り、
「一心同体」なものだから、
「自分の身体」というものに対して、
自分はあまりにも
「無意識」で「無自覚」、
だけれど、
壊れてからでは遅いのだ。



一個人的意見として、
「絶対的健康第一主義」を
私は掲げたい。

自分のものも、他人のものも、
とにかく何をおいても
「健康」を尊重し最優先で考える。

――もしも、
人同士互いにそれができれば、
「世界」や「社会」単位ですらもっと、
平和・平穏になる気が
私はするのである。


そして、
その第一歩としてはまず、
自分自身の身体だろう。

「他人から」、
無理させられないように、
酷使させられないように、
と、
そこまでは割と気づけるくせに。

「自分自身から」の
自分の身体への無理・酷使には
何故か私はこれまで
無頓着だった気もする。

――そんなのって、
「一番ダメ」なんじゃないのか?


この身体を私は、
「拝借している」だけなのだ。

水とか土とか空気とかと一緒で、
「この地上にあるもの」であるかぎり、
私の身体も、
ある種の「借り物」なのだと
私は(一個人的考えとして)
解釈している。

つまり、
「私のものだから、
どう乱暴に使おうと私の勝手」
というのは、
間違っていると、私は感じている。



冒頭の話に戻れば。

単なる胃痛や、
軽い指の怪我や、
仕方ない老眼、
この程度ならまだいい。

「決定的に取り返しのつかない故障」
も、そのうちきっとくる。

その時に
「なんでもっと早くから
声を上げてくれなかったの」と
呼びかけたって遅いのだ。

私の場合、
身体の声は、
心の声以上に、割と小さい。

でも、
聞こえないものではないと思う。

後悔しないように、
ちゃんと
「耳を傾けて」
身体の声を
聴くようにしようと思う。



ちなみに、
「私という存在を長生きさせたい」
という感覚でもないのだ、これは。

スマートフォンや腕時計以上に、
自分という存在の一番近くに
ずっといつでもあってきたそれを、
「粗末に扱う」、
――そんな自分が何だかとても
嫌だな、と、ただただ思った。

これはそういう話なのである。