たぶん、すべては繋がっているので
「こんなことが、あんなことに作用していたなんて!」
と、後になって気づくことがある。
例えば。
「すごく怖い人で、やりにくい人ではあったが、あの人がいたおかげで、仕事場に必要な緊張感が保たれていたのか。……いなくなった途端、ミスは多くなるし、ダレて進捗は悪くなるし。」
とか、
「手軽だし健康に良いと信じて毎日飲み続けていたけど、やめてみたら、そっちのほうが余程、身体の調子がいいぞ?」
とか、
「ああ、ここの奥に、小さくだけど、この赤い屋根が写っているから、この写真はいいのか。……そっちの写真のほうが手前の被写体自体はよく写っているんだけど、この写真と比べると、何かが物足りなかったんだよなあ。」
とか。
ポイントは、同じ「気づく」のでも、「後になって」あるいは「比べてみて初めて」という点である。
――つまりこれらは、概して、「必然的に知ることになった」わけではなく、「偶々、今回に限っては知ることができた」ということなのである。
と、いうことは。
「思いもよらないこと」というのは、そう、「思いもよらないまま」で過ぎていることも、きっと多くあるのではないだろうか??
(「思いもよらないこと」なんて、特別なきっかけが用意されなければ、「思い至ること」もないまま、そりゃあ過ぎているだろうから。)
ここにきての体感・実感としては、「気づく」より、「気づかないまま」で過ぎることのほうが、何だか割合として、多い気がするんだよなあ。
――自分なんかはどこか自分を「過信」しているところもあるから、「全部気づくはず、そういうものだ」と、感覚上で傲慢にも思いこんでしまっているところもある。
――そう思いこめば思いこむほど、疑いもしなくなるから、ますます「気づかない人」になるんだけれどなあ。
実は「作用していた」「関係があった」「物理的に離れているが連なっている存在だった」みたいなこと。
その中には、自分自身と直接、「実は」繋がっているんだけれど、自分でもそれに気づかないままのことだって、きっと含まれている。
つまり、自分が動くたびに、自分に繋がった糸によって、「自分が気づかぬうちに、気づいていないのにもかかわらず、いつも何かが自分につられて動いている」ということだって、何かしらあり得るかもしれないのだ。
(そう考えると、いちいち、ちょっと怖いような気もする……。)
とはいえ。
「この世の全ての仕組み」を、知ることができる人は、神様しかいないだろう。
――自分に関わることですら、「全て」は、知ることはきっとできないのである。
(そういうものだよなあ、と、この頃、つくづく実感している次第であったりもする……。)
そういった意味でも。
「後ろめたさ」は、何事に於いても、なるべく抱えずに生きていきたいなあ、なんて、私は思うのだ。
――仮に、自分が動くことで、自分の手足に繋がれている糸の「作用」で、何かが釣られて引かれて動いても、――場合によっては倒れても。
後になってそれを知ってしまって、「ああ、知らなかったとは言え、あの時、あんなことをするんじゃなかった」とは、できるだけ思いたくはないのだ。
「それでも、あの時は、ああするべきだったのだ」とか、あるいは「ああするしかなかったじゃないか」と、自分で思いたいのだ。
そのためにも。
いついかなる時でも、「自分できっちり考えて、その時のその最善を尽くす」ようにしておきたいなあ、なんて、ふと思ったのであった。