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言霊の中に賢者が住んでいる気がする

自分の言葉の中に、「自分ではない誰か」が住んでいるような気が、時々するのである。
(――って今回のこれは、怪談ではありません。笑)

例えば、自分が何か文章を書いていると、「これは自分ではない誰かが書いているのではないか」と、ふと思わされる内容であったり成句であったりが、たまに出てくることがある。

昨日の記事の内容などもそうなのだが。

最近私は「STOP!不機嫌」キャンペーンを展開中なのだが。(笑)

いつでも周囲の人に対して機嫌よくありたい
→それなら、人に対して「寛容」な自分であればいいのでは?
→それを「無理なく」「自然に」行うためには、まずは自分自身に対しても、「寛容」を心掛けるのもいいのでは?

という、この流れ。

実は、書き始める時には、ここまでは考えてはいなかったのである。

しかし、書いていて、これは「自然と浮かびあがってきた」流れなのであった。

書き終えて、読み返してみて、自分で「へー」と思ったくらいである。
「いいこと思いつくじゃん、自分!」てな具合である。
(なのでもしかすると、思いついたのは「自分」じゃないかもですけど?笑)

書いているのは「本人」なのだが、たぶんあれは、「ここにいる私」ではない。

「ここ」現実世界にいる「ワタシ本体」より、ずっと先を、言葉が歩いている、そんな感覚である。


私は、「言葉」というものを、信じている。

だから私は、「先を歩く」言葉を、そのまま信じてついていくのである。

あえて「言葉の何を?」「どのように?」信じているかという説明は、割愛させてもらえたらありがたい。「何を根拠に、信じてついて行けるの?」という問いに対する答えも。
――それをまた、私の筆力と語彙力で、つまり「ここにいるワタシ自身の言葉によって」、うまく説明できる気がしない、というのが、一番の理由だが。(笑)

しかし、ここに文章を常日頃書く人なら、この「言葉を信じている」という(「理屈」ではない)「感覚」は、多くを説明しなくても、もしかすると、わかってもらえるのではないか?なんてことを私は思っていたりもする。

そして、「言葉」というものを、私は、「裏切りたくない」、そんなふうにも同時に思う。
――私はこれまで、「言葉」というものに、何度も何度も、助けてもらってきたからだ。

もしも。

「言葉の神様みたいなもの」が、存在するとするなら。

私が言葉を信じ続け、祈りを捧げるように大切にし続けていれば。
もしかすると、たまにこうして、思いがけない「智恵」を授けてくれることもある、そんな気がするのである。(あんまりそればっかりを期待し過ぎるのも、ちょっと「違ってきてしまう」気がしますが。笑)


言葉というものの、愛すべきその触感を、掌の中に感じながら、私は今日も、言葉を、一つ一つ並べて、紡いでいくのである。


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