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「心が入ってない自分」をわざわざ自分で作りだしていないか

「うさぎ跳び精神」からの脱却をはかりたい。

「苦しい思いをする。苦しければ苦しいほどいい。」 =「力がつく」 ではない。
「苦しい思いをしたから力がつく」わけではないのだ。

――思い起こすに。
一部の学校の先生や、 あとぶっちゃけ、うちの親も、 そこらへんよくなかったと思う。

なんか、「苦しむ」=「努力」というように、子どもの頃から、度々周りの大人たちに刷り込まれてきた気がするのだ。

もちろん、 努力の過程で苦しむ事はある。――あるけど、でも、「苦しまない努力」だって、もちろんあっていいわけで。

漢字の書き取りとか、 いい例だ。
(よく宿題で出されたけど。)
気持ちが入っていなければ、 10回書こうが、100回書こうが、 覚える気のある1回には、かなわないと思うし。

――かつての自分もそうだったが。
この、「気のない10回・100回コース」に、はまりこんでいる人が、案外多い気がする。

で、それで何が起きるかというと、「(よくよく考えてみると)自分にとって不本意なこと」を 「やらされている」ものだから、その「理不尽」から、他人に対して、どこか心が狭くなるんだよなー。

他人がラクしているのが許せん! みたいな。
(それがまったく「自分の受ける理不尽や苦痛」と関係なくても。)

「俺も理不尽な目に遭っているのだから、お前も理不尽な目に遭うべきだ」って思考回路になったりする。


「心が入ってない努力」は、意味がない。
(それどころか、弊害が生じる。)

というか、 それは「努力」じゃなくて「作業」だ。


然るに。

「心のままに動くこと」は、「わがまま」とは本来違う。

むしろ、「心のままに自分は動く」 とキッパリ決めていれば、 自分で自分の責任は自ずととれてくる、とも思うのだ。

そうなると。
実際のところ、一番大事なのは、「自分で自分をどう評価するか」なのではないか。
――いや、この視点は、これまで自分にもなかった(というか、なくすようにしていた)のであるが。
何故なら「自己満足」に陥りがちだと思っていたからだ。

しかしである。

「自己満足」よりよっぽど問題なのは、「自己欺瞞」である。

――自分を「無意識に」欺くようになると、「まさか自分が自分を自動的に騙すなんて」と考えるから、案外、「まんまと騙されてしまう」。

それが恒常的なものになると、どういうことが起こるだろうか?

「心が動かなくなる」、あるいは、そこから更に転じて「行動に心が入らなくなる」そんな状態に陥るのではないだろうか。



少し話を戻すが。
自分の行動について、「他人の評価」を「自分の評価」よりいつでも上に置くから、 無駄に、でもパッと見でわかりやすい「苦しんでます、だから努力してます」アピールもしたくもなる。

――しかし、「自分が思っているほど、他人は自分のことを気にしていない」というのが、概しての実際であり世の常なのである。
(「悪いこと」は目につくが、「良いこと」は、自分が思っているほど、他者の目につかないものだ。)
(つまり「そういうアピール」は「無駄」だし、ないほうがかえっていいと思う。)

早い話が、むしろそこは、「自分の目で」しっかり「自分自身のことを」よく見ていないと。



「一生見る事が絶対できないと言い切れるものは唯一、自分自身の顔である。(写真とか鏡で映ったものは見れるけど、 生では見られない、っていう論理で。)」
というのが、 何だかとても、象徴している気がする。

うっかり見えているような気がしているが、実は一生「この目で」見ることはない。
それが「自分」というものなのだ。

――顔だけでなく、自分という存在全体は、自分では「他者として」見ることはできない。

なのに、「自分」を管理する第一責任者は、「自分」なのである。

げに恐ろしきこと、危ういこと、である。
(とはいえ、そこに、生きる面白みを感じるという手もあるが。)