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「不快な感情」は自らの感覚を狂わす


まず、ごく一例として。

正反対であるはずの
『慢心』と『卑屈』は、
意外と同居しやすい。


心というのは
「バランス」をとりたがるものだと思う。

なので、
ある部分で「卑屈」になればなるほど、
まるでそれを埋め合わせるかのように、
違う部分でどうも
「慢心」になりたがる、
そんな習性もまたある気がしている。

(もちろんそうじゃない人もいる。
ひたすら卑屈、
あるいは、ひたすら慢心、
そういう人もいる。)
(なので今回のこれはまた
「ごく一個人的感覚の話」に
なっているかも?です。)



「謙虚」では常にありたい、
が、
「卑屈」にはなりたくない。

というのが、
私が常日頃思っていることである。

――「パッと見」が似ているので、
「謙虚」と「卑屈」を
つい混同してしまいがちなのだ。


「謙虚」な心とは、
そこから向上心が芽生えもするし、
だから「前向き」とも言えるし、
より深く物事を観察しようともするし、
そもそも自分を
「憐れ」「惨め」にするものではないと
私は思っており。

一方で「卑屈」は、
あまり心地よい感情ではないし、
またそれはある種の「諦念」とも言え、
そこから「進展」「前進」も
なかなか見込めないと思う。


勝手に「卑屈」になり
(そう、「卑屈」とは
大人の場合、概ね
自分で勝手になるものだ。
と、いうか、
「ついそうなっちゃう自分」を
誰かのせいにもできないだろう)、
その「卑屈」を起因としてどこか
「慢心」になりたがってしまうとしたなら、
それはいかがなものだろう?
――バランスだけは取れたとしても、
「卑屈」と「慢心」を
わざわざ並べているなんて、
そんなのはとても
「良い塩梅」とは言えないだろう。


そして、
このことは、
自分にとって「不快な感情」を
あえてわざわざ持つ必要はない、
ということを示しているのかもしれない。

(つまりこれは「卑屈」に限らず、
「不快な感情」全般の話だ。)

「不快な感情」を持つと、
それのバランスを取るために、
やはり同類の、
「よろしくない感情」を
更に発動させるようになる気がする。

――自分自身の感情も、
「類は友を呼ぶ」なのである。

なので、自分にとって
「清々しいか、そうでないか」
という「感覚」は、
やはり重要なセンサーになっている
なあ、
と、つくづく思う今日この頃なのである。



(私の個人的観察結果なので、
単なる「思い込み」かもしれないが、)
どうも「慢心」から
「他人を見下したがる」人って、
その裏に、チラチラと、
その人自身の「卑屈さ」が
見え隠れしていることが多いような気もする。

その反対に、
「卑屈さ」を持たない人って、
人をわざわざ「見下すポーズ」を
取る必要もないのである。
つまり言うなれば
「驕ること」をしなくてもいい。
――そういう人は概ね、
自分の存在意義について、
人を悪いように巻き込まななくても、
ちゃんと自己完結していることが多い、
ということである。


そもそも。

「他人を見下す」みたいなことって、
その人にとって本来
「気持ちの良い感情」だっただろうか?
とも思う。
――俯瞰で見れば気づけそうなものだが、
だってどう考えても、
そんな態度をとったら、
人は離れていくだろうし、
だとしたら、そういうのって
「(自分にとっても)気持ちいい」に、
(群集心理が働くはずの人間としての)
本能レベルで、
なり得ないのではないだろうか?

――で、あるにもかかわらず、
その「不快さ」を
本人が感じられなくなっているとしたら、
それはそれで、
「感覚が狂っている」
ということのような気もするのだが?

あるいは、
「不必要な種類のコンプレックスを抱え
結果、ある部分が卑屈になる」
というその「うれしくない感情」こそが、
この場合、巡り巡って、
「その人の感覚自体を狂わす」ことに繋がっている
ともまた言える気がするのである。



「不機嫌」に、
「なりたがる」自分。
「不快な感情」を、
「持ちたがる」自分。

と、いうのが、
もしいるのだとしたら。

どうしてそうなのか、
そうなるのか、
胸に手を当てて、
突き詰めて突き詰めていくと、
「面白いのではないか」と、
私は思っている。
(そう、こういうことも私は
「面白がって」いこうと思っている。)


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