見出し画像

「短所」から「長所」が生まれる

この一連のツイートを見ていて、自分の幼少期の頃について、ふと気づいたことがある。
(この連ツイの一部しかここには挙げてないです。ツイート内容にご興味を持たれた方は、クリックして全体を通して読んでみていただければ!)



このツイートの例とは、自分の場合は違うのだけれど。

自分の場合は、幼少期の頃は特に、「極度の人見知り」であった。

だから、友達も少なかったし、「友達と遊びに行く」という機会も、(あるにはあったけど、)多分、普通の子よりはずいぶんと少なかったと思う。

つまり、「家で一人で過ごすのが好きで、その時間が長い」子供だったのだ。


たぶん、そのせいもあって。

タイトルにも上げた通り、「子供の頃のほうが、よっぽど読書家」であった。(笑)


まあ、外に遊びに行かず、家にいる時間が長い子供だったので、単純に「読書する時間ならいくらでもあった」というのは、大きかったと思うけれど。

でも、その「時間の余白」の要素に加えて。
やはり、「他者とのコミュニケーションの不足」そこから来る「涸渇感」みたいなものも、子供なりに感じていたのかも?と。

で、それの埋め合わせのために、「本を読む」という行為を、猛然とおこなっていたのかも?
――なんてことに(この度はじめて)思い当った。


残念ながら、大人になってからは、(そうありたいと願う気持ちはありつつも、)子供の頃のような強めの「本は友達」みたいな感覚は、薄れてしまった、と、思う。
(全くなくなったわけじゃないのだけれど。)

「読書にかけられる時間が減った」のもあるだろうし。
「読書以外にも興味の幅が広がった」というのもあるだろうし。
あとは、
「人とのコミュニケーションについての苦手意識が減り、読書行為に『依存』しなくてもよくなった。」
――言い換えれば、
「そのかつての『短所』の克服により、『読書力』のほうが弱まってしまった」
ということも、うん、これは大いに言える気がしてる。



私の最近の「読書」との付き合い方は。

「読みたい」気持ちはあるので、読むけれど、その気持ちに、頭と身体(と、あと時間の余裕)が、追いつかない。
――なんか、「ノルマに追われる」かのような感覚で読んでいるところもあり、正直、ちょっとそれが、「不自然」な感じもしてしまう。
(「急いで読み進めなきゃ」「そろそろ次の本に行かなきゃ」みたいな意識が、常にどこかにあって、「ちゃんとした、心ある読書」になっていない感覚がある。)


子供の頃の「読書」は、もっと気張らない、義務感など微塵もない、言うなれば、食事や睡眠とも地続きといえるくらいのそれは「自然な行為」だった。

そしてもっと「心躍る」感覚もあった。

子供の頃の自分の読書は、それこそ、「乾ききった大地が、注がれるたびに水を瞬時に吸収するかのように」、読めていた気がする。
――とはいえ、そうそう、そうであった、読み方は結構「テキトー」だった。
つまり、つまらない本、合わないと思う本は、「テキトー」に流していた。(笑)

でも、「これは!」と思った本はその分、ホントに、グイグイ、相当の集中力で読み進めていた気がする。


そういえば、以前に書いた山口百恵さんの記事のコメント欄にて、コメントをくださった方とやりとりをしていた時に思い出したことで、百恵さんのエッセイ「蒼い時」を、幼少期(多分小学校低学年の頃)に結構読み込んでいた(笑)ことを、ふと思い出した。
その「蒼い時」に関しては、後年、百恵さんに興味を持った時に読み直して、「これは……いつぞやの幼少期に、どこかでガッツリ読んだ記憶があるぞ?」「この文章は、百恵さんの本だったのか!」(幼少当時のその文章の記憶が、「百恵さんの本である」という認識に、ちゃんと結びついてなかった)と、なったけれど。

「後で読み直して、記憶の底から蘇ってきた」という、それは例外的ケースで。
「何の本かすらも忘れているが、頭の中のどこかに、子供心にしっかりと刻みこまれた」そんな文章は、きっとたくさん、心に蓄積され、(眠っているものも含め)あるのだと思う。

「他者とのコミュニケーションが苦手だった」その短所の「おかげ」で、今、私はこうして、文章を書くことが「得意」になっているという側面は、大いにあるのだろうなあ。
――なんてなことに、この歳になって初めて「思い当った」わけであるから、面白いものだと思う。


「短所」によって、「別の長所が生まれる」。

そういうことは、特に幼少期にはたくさんあるのだろうなあ、とも、また思うし。

でも、幼少期に絶大だった「吸収する(せずにはいられない)力」と、そして「自分に足りない、あるいは欠けた部分を埋め合わせる力」は、今でも「ゼロ」にはなってない気もするので。

――とはいえ、まあ、そこを、意識的に「短所から長所を生むようにしよう!」なんてすると、多分不自然な力が入ってダメになる気が(自分の場合は)するから。

「自然と、心惹かれる」そんなものに、心のままに接して、つまり「自然な心の動きに任せておく」そのほうが、「短所を補う長所」のその育成も、進むと思われるので。

ま、今後は、期待しないで、期待しておこうと思う。
(本来、そんなものですよね?笑)