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もう「優等生」はいらない

「上に立つもの」「大きなもの」「強い力を持つもの」は間違わないという「幻想」を、人は抱きがちである。

「多数決」の「多数」は必ず正しい、という感覚にも、人はなりがちだ。が、それも「幻想」だ。

――例えば、他国を見ても、自国を見ても、今も昔も「誤った方向」に進む場合があることを鑑みれば、それは火を見るより明らかだ。


「ひたすら皆で、上に立つ誰かについていく」というやり方でいくと、「間違った道」に迷い込んでも、案外気づかなかったりするものだ。
――我が国だって、ある部分では「道に迷い、遭難しかかっている」とも言えなくない現況であると思う。(夜になる前になんとか、なんて思うが、もう日も暮れかかっている気もするし、もしかしたらもう夜に入っているのかもしれない。――それならそれで、「どうやってこの集団でこの山道を夜明けまで無事に抜けられるか」を、考えなければならない局面に、もう入っているのかも?とも思う。)
(とにかく、「下手に動いて、崖にいることに気づかず、そこから足を踏み外して一気に滑落」なんてことにはならないようにしたいものだが。)

「優等生である」ということに、自分のアイデンティティを見出す「癖」がついていると、どうしても「誰かに褒められる」「誰かに評価される」の、「誰かに」という部分を軸にして、自分を動かしがちになる。

昨今、「優等生」が多いなあ、と感じる。

「協調性」――そう、「和を以て貴しとなす」という考え自体は、大切なものだ。

しかし、どういう「協調」、どういう「和」を、自分は(他の人々ではなく、)望むのか。――「個々が」これを持たず完全に失っていては、割と集団は、おかしな方向へ進みだしたりもする。


つまるところ。
「他人に合わせる」「他人に褒められることを目指す」まではいいのだが、いつも「そればかり」「それしかない」あるいは「必ずそれ最優先」では、ちょっとマズい気もするのだ。

「他人をいいように使いたい」と常に目論んでいる人間は、少数ではあるけれど、確実にいる。――で、そう目論み続ける人間はそのうち、実に見事に、その「術」については、(その「術」について「だけ」は、ということもこれまたよくあるけど、)十全に身に着けて巧妙であったりもするものだ。(私にはそれがないので、そういう人間を嫌いながらも、その「術」部分だけは感心したりする。――ちなみに、素晴らしいともうらやましいとも全く思わないが。)

そういう人間にとって都合がよい存在が、「優等生」である。――「他人に褒められる事、第一主義」で、且つ、そこそこ賢く立ち回ってもくれる。
――うん、これは「操縦」しやすいだろうな、と思う。

今の日本って、「優等生」が多いし、若者も含めて、多くがそこを目指しがちな空気が充満している。
――不躾ながら、「優秀な羊の群れ」のように見える。

一見、牧歌的で素晴らしい眺めのようなのだが。
しかし、そこの「牧場主」がマトモでなかった場合、その「群れの羊」の行きつく先は、決して「牧歌的」なものではない、ということは、割と簡単に(特に今なら)想像できることではないだろうか。


私個人は、元々、「他人をいいように使いたい」と目論む人間が、大嫌いなもので。――そのおかげさまで、「優等生」「優秀な羊」を免れて、今、ここにいる気がする。

自分のためはもちろん、他人のためにも、個々人の「判断」をいうものを、「人任せ」にしてはいけないのだと思う。――言い換えれば、「人」でいたいなら、人でありながら「飼い主」を求めるべからず、ということである。

他人ではなく、自分がまず「うれしく思えること」、「喜べること」、それくらいは自分の頭で考えなくてはいけない。
(そこには「自分自身が判断した、他人を喜ばして自分がうれしくなれること」だって含まれるはずだ。)


無論、自分自身、「優等生」なんて、今更目指さないし、なのでまた、これからの若い人々を、「優等生」にしたいなんて思わない。

「誰かの言いつけをしっかり守る」「誰かの言ったとおりに動く」の、その手前で、「自分の頭で考えて判断できる」人間になってほしいし、自分も、今更ながら、そして今後も、そうありたいと思っている。

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