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迷いや悩みや悔いの数だけ増えていく色鉛筆の本数

もちろん、鉛筆一本で、物凄い絵を描ける人もいる。

――しかし、自分にはそんな「技術力」は、ないように思える。


と、いうわけで、そんなふうに「人生」を、「描くもの」として例えて考えてみる。

描く過程にあって、知識も経験も浅くて足りないから、「混ぜて重ねてこそ、こんな色合いが生まれる」等々について、まだまだ不明なことだらけなわけである。

だからこそ、「いろんな色の色鉛筆」(まあこれは「クレヨン」でも「パステル」でもいいんだけれども)を持っていると、やはり自分のようなものにはよい気もするのである。

――これまでを振り返ってみれば。
その時どきで、迷うたび、悩むたび、後悔するたび、「手持ちの色鉛筆」は、自分の頭や心の中に、増えていった気もしている。


繰り返すが、たった一色の鉛筆でも、壮大だったり、斬新だったり、緻密だったり、いくらでも「凄い人生」「素晴らしい人生」「大絶賛するしかないような人生」を描く人はいると思うし。

(そして、そもそも自分はそんな「凄い」とか「大絶賛」とか「他者から素晴らしい」とか思われる人生にしたいわけでもまたないのだけれど。)

でも、もし可能ならば。
(自分の場合はだが、)「様々な色の色鉛筆」を、頭や心の中に、(携えていないよりかは)携えていたほうがいい、携えている人生にしたいような気もしているので。


つまり、これまでの、迷いも、悩みも、悔いも、全部、――「そういった類のこと」ですらも――一つも、「無駄」では(自分の場合は)なかったな、と。

そして「無駄にならない・無駄にしない」と思っているほど、「更に無駄にならない」のではないかな、と。

改めて、そんなことを思っている今日この頃なのである。