誰が悪いか」から「何が悪いか」へ―歴史を客観的で公正で明確なものとして理解するために
おはようございます。放送大学の耳が聞こえない大学生の近藤史一です。
今回は、歴史を考えたり教えたりする際にあたって「誰が悪いか」よりも「何が悪いか」ということを中心にすべきであることについて論じます。その理由は、誰が悪いかだと誰が悪いか否定したいためにあれこれ言って争いになったり善悪が判断できなくなるからです。
歴史とは何か。
歴史とは、過去の出来事や人物を記録し、分析し、解釈する学問です。しかし、歴史は単に事実の羅列ではありません。歴史は、現在の視点や価値観によって書かれ、読まれ、伝えられます。そのため、歴史は常に変化し、多様な見方が存在します。
「誰が悪いか」の危険性
歴史を考えたり教えたりするとき、私たちはしばしば「誰が悪いか」という問いに直面します。例えば、第二次世界大戦の原因は誰にあるのか、原爆投下は正しかったのか悪かったのか、日本の侵略はどこまで正当化できるのかなどです。これらの問いは、歴史的な出来事や人物に対して善悪の判断を下そうとするものです。
しかし、「誰が悪いか」という問いに答えることは、歴史を理解する上で必ずしも有効ではありません。なぜなら、「誰が悪いか」という問いは以下のような問題を引き起こすからです。
偏見や感情に基づく答えになりやすい。
「誰が悪いか」という問いは、自分や自分の所属する集団の立場や利益に基づいて答える傾向があります。例えば、日本人の中には日本の侵略や台湾・韓国の慰安婦は架空だとか七三一部隊は歪曲化されていると正当化しようとし、アメリカ人はアメリカ人自身の行為を正当化しようとします。また、「誰が悪いか」という問いは、自分や自分の所属する集団に対して否定的な評価を下すことを避けようとします。例えば、日本人は日本の戦争責任や加害者性を認めたくないという心理が働きます。このように、「誰が悪いか」という問いは、客観的な事実や論理ではなく、偏見や感情に基づく答えになりやすく、歴史の真実を見失い、また再度同じようなことを繰り返してしまう恐れがあります。
対立や争いを生み出す。
「誰が悪いか」という問いは、自分や自分の所属する集団と他者や他者の所属する集団との間に対立や争いを生み出します。例えば、日本と中国や韓国との間では、歴史問題をめぐってしばしば対立や争いが起こります。これらの対立や争いは、「誰が悪いか」という問いに対して異なる答えを持つことで生じます。つまり、「誰が悪いか」という問いは、自分や自分の所属する集団を正当化し、他者や他者の所属する集団を非難することで対立や争いを煽るものです。
善悪の判断が曖昧になる。
「誰が悪いか」という問いは、歴史的な出来事や人物に対して一律に善悪の判断を下そうとするものです。しかし、歴史的な出来事や人物は、単純に善か悪かということではなく、複雑な背景や状況によって決定されたものです。例えば、原爆投下は、アメリカにとっては戦争を早期に終結させるための必要な手段であったかもしれませんが、日本にとっては非人道的な大量殺戮であったことは間違いありません。このように、歴史的な出来事や人物に対して善悪の判断を下すことは、その多面性や複雑性を無視することになります。そして、その結果、善悪の判断が曖昧になり、歴史の教訓を得ることができなくなります。
以上のように、「誰が悪いか」という問いは、歴史を考えたり教えたりする上で有害なものです。では、どうすればよいのでしょうか。私は、「誰が悪いか」よりも「何が悪いか」ということを中心にすべきだと考えます。「何が悪いか」ということは、歴史的な出来事や人物に対して個人や集団の責任や罪を問うのではなく、その背景や原因や結果や意義を分析し、何がいけなかったのだろうか何をしたらいけないのかを評価することです。
「何が悪いか」で歴史を探る利点
客観的で公正な答えになりやすい。
「何が悪いか」ということは、自分や自分の所属する集団の立場や利益に基づいて答えるのではなく、事実や論理に基づいて答えることです。例えば、日本の侵略はどこまで正当化できるのかという問いに対して、「何が悪いか」ということを中心にすると、日本が侵略した国々の人々にどんな被害や苦痛を与えたのか、日本が侵略した理由や目的は何だったのか、日本が侵略から得たものや失ったものは何だったのかなどを考えることになります。このように、「何が悪いか」ということを中心にすることは、客観的で公正な答えになりやすく、歴史の真実に近づくことができます。
善悪の判断が明確になる。
「何が悪いか」ということは、歴史的な出来事や人物に対して一律に善悪の判断を下そうとするのではなく、その多面性や複雑性を認めることです。例えば、第二次世界大戦の原因は誰にあるのかという問いに対して、「何が悪いか」ということを中心にすると、第二次世界大戦は、国際的な政治や経済や石油問題そして社会の状況や変化によって引き起こされた複雑な現象であったことを考えることになります。このように、「何が悪いか」ということを中心にすることは、歴史的な出来事や人物を多角的に分析し、評価することで、善悪の判断が明確になり、歴史の教訓を得ることができます。
以上のように、「何が悪いか」ということを中心にすることは、歴史を考えたり教えたりする上で有益なものです。私は、「誰が悪いか」よりも「何が悪いか」ということを中心にすることで、歴史を客観的で公正で明確なものとして理解し、伝えることができると考えます。そして、それが歴史の学びや歴史教育の目的であると信じています。
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