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内藤家蔵書1(青山忠俊書状の写し)
今回紹介するのは江戸後期の寛政年間(十一代将軍・徳川家斉の治世)の遠江国豊田郡貴平村の郷士、内藤弥市右衛門徳明の家蔵だった書状の写しです。6冊の書冊の入った箱には経緯が書かれています。書状自体は、寛永年間(三代将軍・徳川家光の治世)以降のものと思われます。
寛政四壬子年三月中旬遠州豊田郡貴平村之郷士 内藤弥市右衛門徳明 篠山江
参越之節家蔵之書数品携来 忠裕君御覧有則模写被 仰付所謂
泰雲君 幡
家康の軍令(慶長5年 会津征伐)
今回紹介するのは慶長5年(1600)7月7日に発せられた徳川家康の軍令です。会津征伐前に配下の武将たちに向けた陣中の禁止事項が記載されています。
軍令全部で15ヶ条あります。もともと1枚であったと思われますが、紙が剥がれて2枚となっています。
軍法事
一 喧嘩口論堅令停止畢若違背輩に
をいては不論理非 双方可令成敗其上或
傍輩或知音之好を以令荷擔者本人ゟ可為
曲事之間 急度
大名に親戚関係を証明するのは命がけ?
今回紹介するのは、戦国時代に岡崎の百々村にいた青山氏から分家した清水氏の子孫である清水小左衛門教正が、200年ほど経った江戸中期に青山氏に親戚であることを証明しに行った際の文書となります。
清水氏は徳川家康に仕えた青山忠門の弟である俊成(初めは青木のちに清水に改姓)から、代々百々村の土地を守っていました。青山氏は家康の関東転封と共に関東へ移り、清水氏とは疎遠になってしまったようです。
そんな清水氏
武田氏との戦で負傷した三河武士の遺書
今回紹介するのは元亀2年(1571)に武田氏との戦の傷が原因で亡くなったとされる三河武士の青山忠門の遺書です。忠門は岡崎城から4kmも離れていない百々村を有していた武士でした。江戸時代後期に書かれた寛政重修諸家譜によると徳川家康の父である松平広忠の頃から仕えており、今川氏に取り込まれた期間を除けば一貫して松平・徳川に属して戦っています。
寛政重修諸家譜(86コマから88コマまで忠門の紹介)
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松平清康が発給の領地判物写
今回紹介するのは天文2年(1533)5月に松平清康が発給したとされる領知判物の写です。清康は徳川家康の祖父にあたる人物です。
写作成の経緯
この判物の写が作成された経緯は、明和4年(1767)3月に丹波篠山の藩主だった青山忠高が親戚にあたる清水小左衛門に写を送ったためです。
上記はその写を送ったことの証書の写です。
授玉君の遺書2通と天文2年の判物1通です。授玉君は青山忠門のことで武田氏の三河