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内藤家蔵書1(青山忠俊書状の写し)

今回紹介するのは江戸後期の寛政年間(十一代将軍・徳川家斉の治世)の遠江国豊田郡貴平村の郷士、内藤弥市右衛門徳明の家蔵だった書状の写しです。6冊の書冊の入った箱には経緯が書かれています。書状自体は、寛永年間(三代将軍・徳川家光の治世)以降のものと思われます。

書冊の箱の裏

寛政四壬子年三月中旬遠州豊田郡貴平村之郷士 内藤弥市右衛門徳明 篠山江
参越之節家蔵之書数品携来 忠裕君御覧有則模写被 仰付所謂
泰雲君 幡龍君 本光君 弥八郎様 五郎兵衛様 藤九郎様 大蔵少輔幸成様 大膳亮幸利様 播磨守幸督様 丹後守幸道
云御書並御家臣数輩之書札也本書者徳明江御返却則内藤家代々秘蔵也

寛政4年(1794)、3月中旬に内藤徳明は篠山(現在の兵庫県丹波篠山市)を訪れました。当時の城主である青山忠裕に、忠裕の先祖が内藤家に送った書状を持って来ました。忠裕は書状を写させた後に徳明に原本を返却しています。
内藤家は青山家と親戚であったようで、忠俊が幕府から改易され、蟄居した時も高平村や内藤家が所有する小林村に滞在していました。

泰雲君:青山忠俊
幡龍君青山宗俊(忠俊の長男)
本光君:青山忠貴(宗俊の五男)
弥八郎:忠俊の次男
五郎兵衛:忠俊の七男?
藤九郎:忠俊の八男?
大蔵少輔幸成:青山幸成(忠俊の弟)
大膳亮幸利:青山幸利(幸成の長男)
播磨守幸督:青山幸督(幸利の孫)
丹後守幸道:青山幸督(幸督の孫)

内藤家蔵書の写し

50通を超える書状の写しがありますが、今回は1通を翻刻しました。

泰雲君御書 一通より

一、寺島村長左衛門 下人之事宿元にて両方之申候大方相尋候 次郎左衛門子次郎作今猶他領罷有寺島へ罷歸度と申由又蔵申候 次郎左衛門田地長左衛門から可玉由ニ候 次郎作早々召返し右之田地相渡し次郎作郷中に罷有様に可被申付候 未進事は地頭代官替り候へはいづれもすたり候間三分之金子斗長左衛門所へ返し候様に可被申付候得ば又蔵事

泰雲君御書 一通より

長左衛門子両人にさし添返し遣し候間先に其方所に置き候而請人三人之申口並郷中之百姓共も可存候間権兵衛談合候て能々穿鑿いたし可被申付候
一、木船村長左衛門事前々のごとく役をも引用所等可被申付候
一、同村市左衛門屋敷薮境之事権兵衛被申付候通具清兵衛申候尤二存候いよいよ右之通可被申付候 以上
    十一月廿三日 宗信
      内藤弥一右衛門殿

まだまだあるので、適宜翻刻を行なっていきます。

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