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大名に親戚関係を証明するのは命がけ?

今回紹介するのは、戦国時代に岡崎の百々村にいた青山氏から分家した清水氏の子孫である清水小左衛門教正が、200年ほど経った江戸中期に青山氏に親戚であることを証明しに行った際の文書となります。
清水氏は徳川家康に仕えた青山忠門の弟である俊成(初めは青木のちに清水に改姓)から、代々百々村の土地を守っていました。青山氏は家康の関東転封と共に関東へ移り、清水氏とは疎遠になってしまったようです。
そんな清水氏の子孫である教正は明和4年(1768)に当時、丹波篠山の大名であった青山忠高のもとへ自らの出自の証明に向かいます。

家老に宛てた書状

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国元出立心覚之事
前々ゟ(より)我し(それがし)御そうち(掃除)仕志やう志ん(正真)之御者か(墓)喜大夫様御?かれ ちう志ん(注進)致せば誠に当殿様えちう義(忠義)何とぞ御城え参上仕右之御書物御膳(前)様之御志やうらん(ご照覧)に入奉若屋(もしや)又書物間違と被仰御とがめあらば誠に先祖のあ屋ま里(誤り)我し殿様之思召にそむきをちと(落度)ならはせんふく(切腹)致しみらいて(未来で)御先祖喜大夫代々之わか父江物かたらんと国元出立に女房共に申をき候 誠に先祖之みやうか(冥加)に叶如此御取立ゑいくわゑ用之のそみ無之参上仕 何とぞ先祖之みやうせき(名跡)あわらしそれ壱ツ如此(かくのごとき)之御取立御礼之申上用も無之ありかたく悦申候 此上は殿様之御用とあらば一命をかけても御前人之ためならば命をすててもそんする我一心如此心を定め誠に少斗(すこしばかり)間違無御座候 以上
三月三日
              清水小左衛門教正
佐治数馬様    
前々より、それがし御掃除仕る 正真のお墓 喜大夫様御?かれ 注進致せば誠に当殿様へ忠義 何卒お城へ参上仕り、右の御書物、御前様のご照覧に入れ奉り、もしや又書物間違いと仰せられ、お咎めあらば誠に先祖の誤り、それがし殿様の思召に背き落ち度ならば切腹致し、未来でご先祖、喜大夫代々の我が父へ物語らんと国元出立に女房共に申しおき候 誠に先祖の冥加に叶いかくの如きお取り立て栄華栄耀の望みこれなく参上仕る 何とぞ先祖の名跡現し、それ一つかくのごときお取り立て御礼の申し上げようもこれなく、ありがたく悦び申し候。 この上は殿様の御用とあらば一命をかけても御前人のためならば命を捨てても存する我が一心かくの如く心を定め、誠に少しばかりも間違いなく御座候 以上

内容としては教正が自身と先祖代々の家名を証明しようとしているようです。この内容が誤りであれば切腹すると書いています。家臣として取り立てて欲しいのではなく、あくまでも清水氏の名跡の証明が目的であるようです。宛先の佐治数馬は青山氏の家老であると思われます。

清水小左衛門教正の誓詞

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清水小左衛門教正誓詞一通
一、此書者小左衛門参上之主意参刕発足之時遺書之趣也於三河 御目見且御家老中御逢之時節小左衛門言語進退民間之者故不調法也然共質朴無文飾?? 本文御請之次第演説之通?? 其性質木訥? 以此誓詞可證之也
明和四年丁亥九月
この書は小左衛門 参上の主意 参刕(三州)発足の時遺書の趣なり 三河において お目見えかつ御家老中 お逢いの時節小左衛門言語進退民間の者ゆえ不調法なり しかれども質朴文飾??なく 本文お請けの次第演説之通?? その性質木訥(ぼくとつ)? この誓詞をもってこれを證すべきなり

こちらは清水小左衛門教正が書いたであろう誓詞と思われます。遺書と書いて、かなりの覚悟を持っていることが分かります。自分は不調法と謙遜しつつ、質朴、木訥だから誓詞をもって証明しようとした感じでしょうか。民間と書かれていますが、教正はどのような身分だったのでしょうか。詳しくは分かりませんが、大名やその家老に会うだけでも難しく、さらに自分が親戚だと証明したのは命懸けだったのでしょう。

覚(百々村の地理情報)

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       覚 
一、映峰授玉様之御屋敷 所は入山申候 此所より 下拙先年の屋敷まで南より北迄長 百二拾間餘 南横巾五拾間程 北横巾四拾間程御座候 南は映峰授玉様之御屋敷 北は下拙屋敷にて御座候 只今居ル屋敷南にて御座候 右之分下拙控え之田地畑方にて御座候 其の内に 次ゟ(より)と申者屋敷少々御座候 今屋敷之内山高さ弐拾間程 横巾四拾間程御座候 其の内に御墓御座候 此れゟ(より)百四十間程北に青木川有り其所に下畑六畝候 是は先年ゟ地頭畑と申し候 下拙控にて御座候 右の通り御座候以上

       六月廿二日    清水小左衛門

映峰授玉は忠門のことと思われます。百々村の忠門がいた頃や現在の教正の土地の情報を書いています。

忠門のお墓の地図

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教正は親切にも忠門のお墓までの参道を絵で描いています。さらに面白いことに飛び出す絵のように階段と木が描かれています。
忠高は教正の申し出を認め、天文2年(1533)に青山氏が松平清康から頂いた領知判物の写しと忠門の遺書の写しを教正へ下げ渡しています。

その後、忠高は明和7年(1770)3月に百々村に忠門の墓碑と石碑を建てました。石は丹波篠山から岡崎の百々村まで運んだとされています。石碑には忠門と青山氏の家譜が記されているようです。文字は見えにくいようですが現存しています。「青山忠門」で画像検索すれば画像が出てくるので興味のある方はご検索ください。

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