常陸国江戸崎の領知目録(江戸初期)
今回紹介するのは、江戸初期に江戸奉行・関東総奉行として活躍した青山忠成が慶長8年(1603)に拝領した江戸崎(茨城県稲敷市)の領知目録です。
【内容物】
・江戸崎領知目録
・領知目録の参考書
内容物は江戸崎の領知目録と、この目録の委細を宝暦13年(1763)に明記した参考書です。「圓相君江戸崎領地目録参考書」の圓相君は忠成の法名・圓相院殿から来ていると思われます。
領知目録
括弧() は付箋部分
内修理は内藤清成と思われます。忠成と清成は家康の小姓として同じような伝説を持っており、家康から馬で駆けた土地を拝領したと言われています。忠成が拝領したのが現在の東京の青山、清成が拝領したのが現在の新宿(内藤新宿)です。
目録の参考書
目録に関する委細が記載されています。この参考書が書かれたのは、目録の拝領から160年ほど経っています。その間の青山氏の家譜や記録書を基にしています。
本光君は青山忠貴の法名です。忠貴は5代将軍綱吉から6代将軍家宣の江戸中期にかけての人物です。兄で浜松城主の青山忠重の養子となっていましたが、家督を継ぐことなく亡くなりました。忠成の曾孫にあたります。存命中は家譜の作成に尽力していたようです。浅羽殿はどのような人物か分かりませんが、同じく記録をまとめていたと思われます。
2人の記録では多少違いがありますが、忠成と清成の下に各々200人ほど家臣が付いたようです。慶長6年(1601)に上総と下総の検地を命じられ、行っています。翌年、江戸崎の知行を拝領しています。
泰雲君は青山忠俊の法名です。忠成の次男(長男・忠次は早世)です。忠俊の書にも江戸崎で拝領した1万石の内、5千石は馬乗同心の25人に給したと記載があるようで、これは事実として疑いないだろうと書いてあります。
目録が書かれたのが慶長8年4月というのは、慶長7年に江戸崎を拝領した記録があることから年数として相応であると記載しています。
内藤清成(内修理)の判によって領知目録が出されていることに関しては、慶長6年に忠成と清成は老中(連署)となっていることから年数事実共に疑いないだろうと書いてあります。
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