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青山忠俊 - 自筆家譜

今回紹介するのは江戸前期に徳川家光の傅役や老中として活躍した青山忠俊の直筆の家譜です。記載時期は不明ですが、徳川秀忠が法名の台徳院と記されていることから、秀忠の亡くなった1632年以降から忠俊の亡くなった1643年までに書かれたものと思われます。

家譜

*便宜的に段ごとに数字をふります

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先祖之事
1. 青山喜太夫殿菩提所者 参州岡崎大林寺二而候
2. 播磨守殿 諸大夫二被仰付候事ハ 慶長十年巳ノ年 台徳院様将軍ニ被為 成候時ニ而候
3. 我等 台徳院様江御奉公申上候事者 七八歳之時 権現様 台徳院様遠州ゟ駿河江御移被成候時より御奉公申上候 天正<十八寅ノ年号か> 寅年 台徳院様御十二 我等十三ノ歳ゟ小田原陣江致御供 其ゟ打諸御奉公申上候 台徳院様御年十三之時御上洛被成候 聚楽ニ(に)三年御在京被成候 御上洛之時分ハ兄者人藤七 御供ニ而 我等ハ相州玉縄ニ相残リ 翌年十四ノ歳罷上則 台徳院様於 御前藤五郎と名を御付ケ被成候

1. 青山喜太夫殿菩提所者

青山喜太夫は忠俊の祖父・忠門です。菩提寺は岡崎の大林寺にあります。
私は確認にまだ行かれていないですが、下記ページによると青山喜三郎忠世の墓が確認できるようです。忠世は忠門の父にあたります。

2. 播磨守殿

播磨守は忠俊の父・忠成です。諸大夫とは、武家では五位相当の者を言います。慶長10年(1605)、秀忠が将軍になった時に忠成が諸大夫になったと書かれています。ただし、この年数が正しいかは不明です。『寛政重修諸家譜』によれば、文禄3年(1594)4月、忠成は従五位下 常陸介に叙任と記されています。また、忠俊が慶長5年(1600)11月17日、従五位下 伯耆守に叙任していることから子よりも遅く諸大夫になったとは考えにくいです。

3. 我等 台徳院様江

忠俊が初めて秀忠に仕えた時期からの話が記載されています。忠俊は7、8歳の時に秀忠に仕えました。家康と秀忠が浜松城から駿府城へ移動した時に一緒に従っていきました。天正18年(1590)には、北条氏の小田原征伐のお供をしたようです。翌年から秀忠は人質として京に3年間いることになります。ここには忠俊の兄・藤七(忠次)がお供しています。忠俊は玉縄(現在の神奈川県鎌倉市)に残っています。玉縄にいることから、この頃には家康の関東移封は完了しているようです。この翌年に忠俊も京の秀忠のもとへ行っています。忠俊は秀忠から藤五郎の名をもらったようです。


4. 慶長十年巳ノ歳 台徳院様将軍ニ被為成 御上洛之時 我等組頭ニ被仰付 水野隼人 菅沼織部 新庄越前 滝川壱岐守 堀伊賀守 堀淡路守 村上源助 右之衆其外 我等組ニて致御供候
5. 台徳院様ゟ播磨殿御茶壺拝領ニ而 則御茶御上ケ候て被為成終日御機嫌能御座候事
6. 我等諸大夫ニ被仰付候事ハ 慶長十五年十一月十七日ニ而候
7. 御書院番頭被仰付候事ハ 御書院番初リ候ヘ而より被仰付候事
8. 将軍様御宮参之御帰ニ播磨殿江御立寄被成候と覚候 委細母者人御存知可被成候

4. 慶長十年巳ノ歳

慶長10年(1605)、秀忠が将軍となると忠俊は組頭として上洛のお供をしたようです。

5. 台徳院様ゟ

父の忠成が秀忠から茶壺を拝領しました。その日は終日、忠成の機嫌が良かったと記載されて微笑ましい内容です。

6. 我等諸大夫ニ

忠俊が諸大夫になったのが慶長15年と書かれていますが、前述の通り、慶長5年(1600)11月17日、従五位下 伯耆守に叙任の記録があるので年数の記載ミスと思われます。

7. 御書院番頭

忠俊が書院番頭になったことが書かれています。書院番は慶長10年に設けられた職で最初に番頭に任命された内の一人です。

8. 将軍様御宮参

ここでの将軍様とは徳川家光のことです。家光の幼少のお宮参りの帰りに忠成のもとへ寄ったそうです。委細は母が知っていると書いているので忠俊はよく把握していないようです。これを書いた時に忠俊が50,60代とすると、母は70,80代で存命と思われるので、長命であったようです。


9. 崇源院様何之御用ニ而候哉覧 御上洛被成候時 其御方違御門出として播磨殿江被為成候 日暮候而 台徳院様茂(も)御見廻ニ被為成則還御被成候 崇源院ハ一夜御泊リ被成 翌日御帰城候
10. 将軍様江御付ケ被成候事ハ 元和五年未ノ年 将軍様御十六之時にて候 翌年申ノ年 岩付拝領仕候 御事ニ岩付ハ江戸御城之根城ニ候間 被仰付由  直々忝 上意ニ候 其後元和八年年号戌年 権現様御七年忌ニ 台徳院様日光江被為成候時 岩付ヘ 御成被成 御機嫌残処無御座 上下供ニ岩付ニ御泊リ被成候
11. 大坂御陣之刻 組中善悪之書付進之候

9. 崇源院様

崇源院は秀忠の正室の江のことです。江が上洛するに際して江戸城から出立するには呪術的に方角が良くなかったようです。忠成の屋敷に一泊することで忌む方角を祓っているようです。秀忠も泊まりはしませんでしたが、忠成の屋敷を訪れたようです。慶長12年から14年のものと推測される江戸始図によれば、忠成の屋敷は江戸城のすぐ近くにあります(赤枠部分)。

松江歴史館所蔵の江戸始図。忠俊の屋敷も忠成の屋敷のすぐ南に見える。

10. 将軍様江

忠俊が家光のもとに付いたのは元和5年(1619)です。翌年には忠俊は岩槻城を拝領します。拝領は直々に上意をもらったようです。元和8年の家康の七回忌には日光へ参拝した秀忠が行きと帰りに岩槻城に宿泊しています。

11. 大坂御陣之刻

組中善悪之書付が何のことかよく分かりませんが、おそらく大坂の陣の時の戦功を忠俊がまとめているのではないかと思います。

まとめ

全体的な内容としては秀忠と忠成、忠俊の親子との関係が良かったことを強調しているように見受けられます。一番気になったのは将軍の呼び方です。「将軍様」と呼ぶのは初めて知りました。上様以外の呼び方がこの時代にはあったということでしょうか。

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