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家康の軍令(慶長5年 会津征伐)

今回紹介するのは慶長5年(1600)7月7日に発せられた徳川家康の軍令です。会津征伐前に配下の武将たちに向けた陣中の禁止事項が記載されています。

軍令

全部で15ヶ条あります。もともと1枚であったと思われますが、紙が剥がれて2枚となっています。

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    軍法事
一 喧嘩口論堅令停止畢若違背輩に
  をいては不論理非 双方可令成敗其上或
  傍輩或知音之好を以令荷擔者本人ゟ可為
  曲事之間 急度可加成敗 若令用捨者 縦
  雖後日相聞 其主人可為曲事事
一 味方之地にをいて放火堅令停止之事 狼藉仕に
  をいては可加成敗事
一 味方之地作毛をあらし田畠之中に陣取
  事堅令停止之事
一 先手へをハらすしてもの見を出儀
  堅令停止之事
一 先手を差越し縦雖令高名 背軍法之上者
  可成敗事
一 子細なくして他の備えあひ交とも
  武具馬共に可取之然ニ其主人及異儀者
  共以可為曲事但於有用之者
  可通事

書き下し文

一 喧嘩口論は堅く停止せしめ畢んぬ、もし違背の輩にをいては理非を論ぜず 双方成敗加えるべし その上或傍輩或知音の好を以って 荷擔(かたん)せしめば本人より曲事(くせごと)たるべきの間 きっと成敗加えるべし もし用捨せしめば たとい後日相聞えども その主人曲事たるべき事
一 味方の地にをいて放火堅く停止せしめの事 狼藉仕にをいては成敗加えるべき事
一 味方の地作毛をあらし田畑の中に陣取る事堅く停止せしめの事
一 先手へ終わらずして物見を出す儀堅く停止せしめの事
一 先手を差越し、たとい高名せしむというとも 軍法背くの上は成敗加えるべき事
一 子細なくして他の備えあひ交とも武具馬共にこれ取るべし しかるにその主人異儀に及ぶは 共に似て曲事たるべし但し用所これ有るにおいては通るべき事

陣中での喧嘩の禁止や味方の地での乱暴狼藉は禁止されています。書き下してみると私でも理解できそうなので、これを読んだであろう武士たちも、もちろん理解して行軍していたでしょう。

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一 人数押し時わき道すべからざる由堅
  可申付若みたりに通るにをひてハ可加成敗事
一 諸事奉行人の差図をそむかは可令成敗事
一 時の使としていうようの人を雖(いへども)差遣不可違
  背若右の旨そむくにおいては可為曲事
一 持鑓八軍役の外たるの間 長柄を差置不可令持之
  但長柄の外令持之者は
  主人馬廻ニ壱丁たるへき事
一 於陣取 馬を被放者 可為曲事
一 小荷駄押之事 兼而相触の条 軍務に
  不相交様に 堅可申付之 若みたりに相交者 可成敗事
一 諸商売押買狼藉堅令停止訖 若於違背之族者 見あひに可成敗事
一 無下知陣払仕可為曲事
一 陣中において人返しの儀一切停止事
  右條ゝお違背之輩者無用捨可加成敗者也
    慶長五年七月七日(朱印)

書き下し文

一 人数押し時わき道すべからざる由堅く申しつけるべし、もしみだりに通るにをひては成敗加えるべき事
一 諸事奉行人の差図をそむかば成敗加えるべき事
一 時の使として有用の人を雖(いへども)差し遣わし違背べからず もし右の旨そむくにおいては曲事たるべし
一 持鑓は軍役の外たるの間 長柄を差し置きこれを持たすべからず ただし長柄の外これを持たする者は主人馬廻に壱丁たるへき事
一 お陣取 馬を放せらるは 曲事たるべき事
一 小荷駄押の事 かねて相触の条 軍務に相交わらぬように 堅くこれを申し付けるべし もしみたりに相交わらば 成敗すべき事相交わらぬように 堅くこれを申し付けるべし もしみたりに相交わらば 成敗すべき事
一 諸商売押買狼藉堅く停止せしめおわんぬ もしお違背の族は 見あひに成敗の事
一 下知なく陣払い仕曲事たるべし
一 陣中において人返しの儀一切停止する事
右の条々、お違背の輩は用捨なく成敗加えるべきものなり

陣中での禁止事項が記載されているようです。ここでの成敗は死罪という意味でしょうか?いずれにしても重い処罰がくだされる感じですね。

上記リンクにも同様の軍令が記載されていますが、少し内容が違う箇所があります。
一 持鑓ハ軍役の外たる… 
と書かれている箇所が
一 於敵地、男女不可乱取事
となっていました。
敵地での掠奪を禁止しています。
同じ日付の軍令のようですが、違いがあるのはどう言う理由からか不明です。

この軍令は7月7日に発行されます。そして家康たちは会津征伐に向かいますが、7月末には中断し、西へ引き返すこととなります。その後、9月には関ケ原の戦いとなります。ここで疑問に思うのは、この軍令はいつまで有効だったのかです。
この軍令と一緒に保管されていた書状には青野御陣御触状と書かれていました。青野は関ヶ原近くの場所です。関ケ原の戦いでも有効な軍令であったように思います。

朱印

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この朱印には「忠恕」と書かれているようです。こちらのリンクに家康が利用した印判の一覧がありました。合わせて御覧ください。


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