松平清康が発給の領地判物写
今回紹介するのは天文2年(1533)5月に松平清康が発給したとされる領知判物の写です。清康は徳川家康の祖父にあたる人物です。
写作成の経緯
この判物の写が作成された経緯は、明和4年(1767)3月に丹波篠山の藩主だった青山忠高が親戚にあたる清水小左衛門に写を送ったためです。
上記はその写を送ったことの証書の写です。
授玉君の遺書2通と天文2年の判物1通です。授玉君は青山忠門のことで武田氏の三河侵攻の際の戦で亡くなったとされる人物です。清水氏は青山氏から派生した家となります。授玉君の遺書については別記事で紹介します。
清康による判物
三州額田郡於百々 八百町
お?て令領納者也
天文二年癸巳五月日(花押)
青山喜太夫とのへ
青山喜太夫は青山忠世と思われます。忠世は前述した忠門の父です。また、徳川家康が関東移封後に江戸町奉行に任命された青山忠成の祖父にあたります。青山氏は現在の岡崎の百々町を有していました。松平氏とは少なくともこの頃には関係があったことが分かります。
寛政年間に書かれた諸家系譜(122コマ目)にも同様の写しの記載が下記のリンクにもあります。善徳院様御判物と書かれています。善徳院は清康の戒名なので、これが清康によって発給された判物の写であることが分かります。