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武田氏との戦で負傷した三河武士の遺書

今回紹介するのは元亀2年(1571)に武田氏との戦の傷が原因で亡くなったとされる三河武士の青山忠門の遺書です。忠門は岡崎城から4kmも離れていない百々村を有していた武士でした。江戸時代後期に書かれた寛政重修諸家譜によると徳川家康の父である松平広忠の頃から仕えており、今川氏に取り込まれた期間を除けば一貫して松平・徳川に属して戦っています。

寛政重修諸家譜(86コマから88コマまで忠門の紹介)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2577463

遺書

遺書は2枚あり、日付は卯月三日と卯月六日と書かれています。
寛政重修諸家譜によると忠門は元亀2年に亡くなったとしていますが、この書状の日付を見ると「申卯月三日」とも素人目には読めます。そうなると干支が申であることから、元亀3年(1572)ですが正しくは不明です。

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かきをこす
此度深手有之処にてきに首被打取候処当人一命をかけ働 宇野勘十郎 中山左衛門当人討取り三人共に住処えかへり ゆるゆるとりやうじする処 大深手なれば不叶命も 二三日内と相見えるによって其等子孫達えかきおき者也 清水小四郎 同小左衛門 此時十三才なり 小左衛門と見へしはまさしう…(省略)

青山喜大夫(花押)
申?卯月三日
清水小四郎 江

1571年に武田信玄は三河に侵攻してきました。寛政重修諸家譜によると岡崎城付近まで来た武田軍と岩津村で忠門は一族を引き連れて戦い、退けました。その際、武田軍の宇野勘十郎と中山左衛門と言う武将を討ち取ったようです。しかし、一族に多くの戦死者を出し、忠門も足を負傷し、歩行が困難となりました。この手紙はその後、書かれたものとなります。後半はよく理解ができないですが、親戚の清水氏の件について書かれているようです。系図上は忠門の弟の俊成が清水に改姓しているようです。

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ちせい
(省略)
武士たる道はいつとてもすべによりて命をすつべし
五十四才ちるこれを印
青山喜大夫 (花押)
卯月六日
清水清心坊(?)江

最初の方は読めない部分があるのですが、ちせいは辞世と思われます。武士というのは、いつでも死ぬ覚悟を持つようにと言った趣旨が書かれています。忠門はこの翌日に亡くなったとされています。この忠門の墓は岡崎の百々にあります。機会があれば訪れてみようと思います。

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