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男性性と女性性を誘導しない社会になってほしい

整形で顔面などの外見を変えるのとは違い、生まれ持った生殖機能や男性器、女性器の機能は、性転換手術を受けても完全に機能するものになるわけではありません。

人工的陰茎は新しく作った尿道による排尿困難や、勃起や膨張の不機能、
人工ヴァギナは永久的にディルドなどを一定時間挿入したりすることで空洞を維持し続ける必要があります。

精巣や卵巣を除去しても、逆に取り入れることはできないし

切除した乳房は元には戻ってきません。

また、男性ホルモンや女性ホルモンの投与で見た目を希望する性に近づける段階で、必ずしも幸せになれない人も多いと聞きます。

昨今、履歴書等の書類への記載は男と女の他に非定義だったり不回答だったり多様性が見受けられますが、

私からすると、そのこと自体、社会が便宜上性別を男か女のどちらかに誘導したがっているようにしか思えません。

問題なのは、人間が何世紀もかけて文化的、風俗的に、男女とはいかなる偶像かということを定義し続けてきたがゆえに
一般的に社会が定義する”男”と”女”の”フォルム(見た目)”と”振る舞い”に当てはまるかどうかが重要で、その枠から外れているとどうも社会的に居心地の悪さを感じてしまうことだと考えます。

例えば15年ほど前から日本で出てきたトピックである性同一性障害について書かれた多くの手記で
「小さい頃から女の子と遊ぶのが好きで、おままごとや化粧に興味があった」
「男勝りで男の子たちとスポーツをするのが好きだった」
一見すると当時は、なるほど、それは違和感を感じるね!と共感する人が多かったかもしれません。

しかし、一つ一つ紐解いていくと
・異性と遊ぶことのほうが楽しい=同性意識から感じるものではない
・男の子のする遊び、女の子のする遊びは社会が作り上げた主観的形象
・異性(に主観的に定義された偶像的な)の服装や髪型を好むことは個人的な美的傾向とも言える
・同性を恋愛もしくは性愛対象に思うこと=自分の性が異性でないといけないわけではない

現代(2024年現在)は、上記のように1か2かという判断の仕方ではなく、
性的嗜好は別のものとして認識されることも許容されており、
男性同士、女性同士のカップルも表に出てきています。

しかし、自身の性自認については、いまだに男か女かの二択で考えられており、誘導されているように思えます。

国によっては10代のうちからホルモン治療や性器の形成や切除を行っているところもあるようですが、恐ろしいことだと思います。

10代の頃、二次性徴でどんどん性別の特徴が現れることに違和感を覚えたり
まだ自我もあやふやな時期に世間の言う男性/女性性の主観的形象を上の世代に誘導されたり
若者特有の脆くて過激な思想に感化されたりすることで

女性性を押し出した服装をすることに抵抗を感じたり、男性性を押し出した振る舞いをすることに抵抗を感じたりする子供たちは多くいるでしょう。

特に学校に通っている年齢だと、同じ年頃の人間が毎日嫌でも目に入るわけで、自分とその他大勢を比べて、ついていけないなと思ってしまうこともあるかもしれません。

私は女性ですので女の子の例を挙げると、クラスで目立っていてロングヘアでメイクもしていてモテていて可愛い女の子がいるとすると、その子のいるグループに入りたいと躍起になったり、入れないと自分を卑下してしまう子も出てくるでしょう。
そんな時、胸を強調したりへそを出した服装が嫌で、ゆったりしたボーイッシュな服を着るのを好む子もいると思います。

レースのついたブラジャーが死ぬほど嫌だったり、ふわふわや柔らかさを嫌うこともあるでしょう。

けれど、それは男の子になりたいという意味ではないのです。
性的なことを感じるのも感じさせるのも嫌だと感じるがゆえの、自身を中性的に見せるある意味防御反応でもあると思います。

私はこれまでに、自分の交友関係の中で、
異性どころかそもそも人間が恋愛や性愛対象でなかったり、自分の女性性を認めるのが嫌で痩せてほぼ無脂肪でいることに固執する人にも出会って、その人から深い心の内もヒアリングする機会がありました。
彼女は、建物を愛する傾向があり、実存の建造物が性愛対象です。
実際の人間とスキンシップをするのは嫌で、衝動的に自傷行為をしてしまうこともあります。
おそらく、育ってくる中でコンプレックスや心理的な傷があることも一因なのかと思います。

人間は、自分の知識や解釈の範疇で人をカテゴリー分けすることで安心します。
未知のものを受け入れるのは勇気のいることです。
でも、そのことで他人を傷つけることにもなります。

心の揺らぎや、自分への違和感がある人に対して、性別を変えればいいのではないかとアドバイスする人が周りにいる、もしくはアクセス可能だとすごく危険だと思います。
根本は、そんなに簡単で1か2かで決められることではないはず。

人それぞれ抱えている悩み、心の闇、トラウマなどがあり、それを健全な方向に持っていくことが大事なのかと思います。

実際、大人になってみると10代の頃とは別の人間になります。
私だって、尖りまくっていた10代までの自分と今の30代の自分は別人だし、なんなら20代から今も大きな変化を経たと感じます。

心とは、揺らぎやすいもの。

特にここ数年感じるのは、心のバランスを保つのが難しいことが多くなり、
生きるのが虚しくなってもう存在していたくないと感じる時期が多くあることです。

ホルモンバランスや生理周期の原因もあるのかもしれません。
低用量ピルを服用し数ヶ月経って、ひどい落ち込みが起こることは減ったように思いますが、それでもゼロではないです。

それだけ、ホルモン量を変えたり人為的に左右するのは精神的なリスクが伴うと言うことでしょう。

装いの嗜好が変わることだって、長い年月生きていると何度もあるでしょう。

でも、一度体の部分を除去してしまって、それをまた取り戻すことはできません。

ホルモン投与や性転換手術をしても、完全な異性にはなれないと言うことは大きなリスクです。
なおさら焦燥感やうつ、体の機能がうまくいかずに生活の質が著しく低下してしまうことにもつながるのではないでしょうか。


そして、公共施設での男女の区分けを、実質的な性(男性器の有無)で判断するのか
それとも性自認で判断するのか
というなんとも救いようのない議論はいい加減にやめてほしいです。

陰茎がある以上、女性ではないです。
いくらその人の見た目が女性的だったとしても、心が女性で自身が男性更衣室やトイレに行きたくなくても
陰茎がある人が閉鎖された空間に侵入してくることで、どれだけの心理的不安を覚えるか。
その方は、違和感を感じながら悩ましい人生を送られてきて、ご自身の権利を主張されたいのはごもっともです。
しかしながら、圧倒的多数の人が安心して公共施設を使う権利だってあります。
逆はあまり聞きませんね。
見た目が男性的だけど陰茎のない方で、そういうことを主張する方の事例は聞いたことがありません。
(あるのでしょうか?)
ごく物理的に、陰茎のあるなしは強姦リスクのあるなしに直結するので、慎重になるのは当たり前。

男女関係ない個室のトイレを利用するとか(男性トイレにも個室はあるでしょう)
例えばジムに行くのならシャワーや着替えは自宅で行うなど、工夫していただいて、社会の多数が安心して生活できるようにするしかないのではないでしょうか。


そして、戸籍上の性別変更について。
生殖機能や見た目の整合性を問わないで書類上の性別を変更することができる国は増えています。
本当に恐ろしいです。
まずは同性婚を当たり前に許可することで、愛する人と結婚したいがために戸籍の性別を変更する人は減るでしょう。
そして、さまざまなシチェーションで、男でないと、女でないとと言う壁をなくしていくことが先決ではないでしょうか?
まずもって、圧倒的多数の社会が、男性性と女性性を強制するシチェーションを作り出していること、それに気づく人の少ないこと、それが問題では?
性別関係ない権利。
まずそれを整えるべきであって、なぜ、男女の性別にこだわる?

それこそが、トランスジェンダーと自認している人も、社会も、ほぼ全ての人が、
結局のところ人類を男性か女性かにカテゴライズすることしかできていないと言う証拠です。

そもそも男か女かということは、あけすけに言ってしまえば排泄と性行為を行うシチェーションでのみ意義を問われる身体的特徴に基づく事実的形象であって

主観的形象はこの際、崩れ去ってしまえば良いのです。
違いますか?

世界中が、アホくさいプロパガンダを演じているようで、私は辟易としています。


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