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カーツワイルの「シンギュラリティ」最新版その3:私はだれ?

前回の続きです。

今回は、第三章「私は誰か?」を補足的に紹介します。

テーマを一言で言うと「意識の探求」です。

いきなり話が逸れたように感じるかもしれませんが、カーツワイルの前著はシンギュラリティ本ではなく、2012年に発刊された「心の作り方」(未邦訳)です。

つまり、カーツワイルにとってむしろ重要なテーマです。

一般的に「意識」は下記2つのとらえ方をされます。
1.内面と、外部で起こっている両方を認識してるかのように行動する能力(酔っぱらいは部分的にしか意識がない状態)
2.心の中で主観的な経験をする能力(1と違い、実際に持っているとするのがポイント)

そもそも人間以外に意識は宿るのか?

2012年には、その可能性を検証すべきだとする「ケンブリッジ宣言」が唱えられました。
本作では取り上げてませんが、2024年4月にはその科学的裏付けを示唆するニューヨーク宣言も発表されています。(賛否ありですが)

意識の論争で歴史的に有名な論点にある「哲学的ゾンビ」があります。

その提唱者のデヴィット・チャーマーズは「汎原心論(panprotopsychism)」を唱え、それが宇宙の基本的な力(もとからあるもので物理法則から導かれるものではない)と置きます。

カーツワイルは、この仮説を採用すると科学の範疇を超えてしまうと危惧します。そうではなく、脳内での複雑な情報処理が主観的経験を目覚めさせると信じるしかないとします。(ゾンビは存在しない信じる)

その例示として、人工生命の分野で有名な「ライフゲーム」を取り上げ、ミクロ的にはランダム(複雑)だがマクロで見ると何かのパターン(意識)を生み出したかのようなふるまいを紹介します。

人工生命の歴史については、過去に触れた記事を載せておきます。

この流れで、カーツワイルは、意識を生み出す脳内プロセスが我々の行動で表現できる限り、我々に「自由意志」はあるとします。

ただ、一つの難題を持ってきます。

近年の脳科学研究で、我々の脳はモジュール単位で構成されていることが分かってきました。

もし、その小さなモジュール単位で我々の肉体を段階的に複製することに成功したら、積み上げられた第二の肉体は意識をもつのか?

カーツワイルはYESの立場をとります。

ここで話は一気に宇宙スケールになります。

ようは、我々が生まれて知的に進化するまでに、数多くの奇跡的な確率の糸で紡がれてきました。

生命以前に、その舞台となる宇宙を支配する自然法則がほんのわずかでも異なるだけで、生命への細い道はとざされてしまいます。
その合理的説明として「人間原理」も紹介していますが、それに対してはやや中立的(か批判的)な立場です。気になる方のために、この原理自体を紹介した投稿を載せておきます。

話を戻し、改めて目先の段階的な自己複製のケースに戻ります。

第二の自分が複製されるとオリジナルと別に意識を持つため、そのアイデンティティについては倫理・法的には配慮する必要性を唱えています。

また、複製方法にも粒度があり、究極的には量子力学的作用までを模倣するか否かに分かれます。
補足しておくと、近年の研究で人間の脳でも量子効果が間接的に確認されています。

カーツワイルはそこまでは不要の立場をとり、物理法則まででなくても、生物学的な情報処理として等価であればOKとします。

最後に、我々の身体は老化によって常に衰えていきます。
シンギュラリティの結果、身体の拡張だけでなく老化からも解放する可能性を秘めています。

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