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ハンガリー映画史② 繁栄の時代(1910~1919)

ハンガリー映画といえばネメシュ・ラースロー『サンセット』が公開され、エニェディ・イルディコ『私の20世紀』やタル・ベーラ『サタンタンゴ』がリバイバル上映される今年は正にハンガリー映画イヤーと言えるかもしれない。

今回はニュースリール時代からハリウッドに肩を並べるほどに成長したサイレント時代について紹介していこうと思う。

・長編映画の時代へ

1912年10月14日に上映された『Ma és holnap (Today and Tomorrow)』はケルテース・ミハーイが撮ったハンガリー初の長編映画である。映画製作会社が現れ始め(Uher: 1912、Kinoriport: 1914、Star: 1916、Astra: 1917)、配給そのものもより組織化されていく。また、この頃映画製作に乗り出した監督たちは後々世界的に有名になっていく。

・完璧なロケ場所、コロジュヴァール

1910年代の中頃、20以上ものハンガリー系映画製作会社があり、多くの作品が郊外のコロジュヴァール(現在のクルジュ=ナポカ)で撮影された。このロケ撮影を主導したヤノヴィッチ・イェネーはアメリカ映画の模倣では世界市場で負けてしまうと考え、ローカル色を取り入れて市場を開拓しようとした。ここでの最初の映画は貧民ドラマの『Sárga csikó (Yellow Foal)』(1914)である。これ↓

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フランスのパテ社協力の下、監督Vanyl Félixが完成させた。この作品はハンガリー映画初の世界的ヒット作となり、『Son of the Pusta』という英題で137本のプリントを売り、日本でも上映されたらしい(邦題不明)。

コロジュヴァールで作られた映画の中でも芸術的と誉れ高いのがKatona Józsefの悲劇を基にしたケルテース・ミハーイ監督作『Bánk bán』(1915)である。また、同時期にコルダ・シャーンドルも監督業に乗り出し、ヤノヴィッチのスタジオで『Mesék az írógépről (Tales about the Typewriter)』(1916)を撮っている。この頃、ハンガリー中産階級を主人公とするコメディジャンル"愛と仕事"の雛形が完成し、Gaál Béla監督作『Meseautó (Car of Dreams)』(1934)で頂点を迎える。また、ブダペストではUher社がJókai Mórのロマンス小説原作の超大作『Mire megvénülünk (When We Grow Old)』(1916)をUher Ödön監督のもと完成させる。

・コルダ、ブダペストへ戻る

コルダは1917年にコロジュヴァールからブダペストに戻り、当地にコルヴィン映画製作所を設立してヤノヴィッチから独立する。この会社はアメリカのような大量生産が可能になるよう組織されており、コルダはここで25本の映画を監督した。現存しているのは『Az aranyember (The Golden Man)』(1918)一本のみである。ちなみに、この映画はハンガリーで二度に渡ってリメイクされている。(これ↓はケルテース版)

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・映画大国ハンガリーの誕生

第一次世界大戦中、アメリカ・フランス・イタリア映画の上映が禁止され、結果的に国産映画が繁栄することになった。1917~18年にはデンマーク・アメリカ・ドイツ・イタリアと肩を並べるほどになったという。1918年には100本もの映画が製作され、Várkonyi MihályとBerky Liliによって輸出された。

・諸外国で仕事をする映画人たち

このように、ハンガリーの無声映画産業は常に国際市場と密接に絡んでいた。例えばIllés Jenőはほとんどベルリンで仕事していた。また、外国から監督が撮影に来ることもあった。イタリア人映画監督コルネリウス・ヒントナーは12本の映画をブダペストで撮影している。また、
Sacy von Blondel
Bánky Vilma (ヴィルマ・バンキー)
Putty Lia (リア・デ・プッティ)
Kató Nagy (ケーテ・ボン・ナギー)
Várkonyi Mihály (ヴィクター・ヴァルコニ)
ルゴシ・ベーラ(ベラ・ルゴシ)
などのスターたちも誕生した。

これまで散々登場した二人の著名なハンガリー人映画監督ケルテース・ミハーイとコルダ・シャーンドルはそれぞれマイケル・カーティスアレクサンダー・コルダを名前を変えて世界に羽ばたくことになる。ケルテースは大衆映画に興味を持ち、1919年のハンガリー共産主義革命では左翼陣営のプロパガンダ映画を監督している。一方、コルダは"文学的"でハイソな映画を好んで作ったため、中産階級の支持を集めた。結果的に、大衆寄りだったケルテースはアメリカ映画産業へ、中産階級寄りだったコルダは伝統的なヨーロッパ映画産業へ足を踏み入れることになった。

・文壇と映画界

ハンガリーの無声映画は同時代のハンガリー文学と同じくらい世界文学にも密接に繋がっていたが、トーキー時代にはその伝統も廃れてしまった。新たな芸術表現として登場した映画に対して、既に認知された文学作品を当てることで映画の立ち位置を高めようとして成されたのである。芸術に対して一定の興味を示す中産階級向けの映画では
・Vörösmarty Mihály
・Arany János
・Jókai Mór
・Eötvös József
・Mikszáth Kálmán
のような19世紀の作家たち、或いは
・Ambrus Zoltán
・Babits Mihály
・Bródy Sándor
・Herczeg Ferenc
・Molnár Ferenc
・Pekár Gyula
のような同時代の作家たちの作品を原作とした映画が多く作られた。逆に大衆向け映画では多くの観客の興味を引こうとエレノア・グリン、ガストン・ルルー、ジョルジュ・オーネーといった大ヒット小説を原作とした映画が作られることもあった。

しかし、ハンガリーの映画監督たちは実験映画を好まなかった。観客達の好きな俳優が普通じゃない"芸術的な"方法で現れるのを嫌ったためだとか、映像トリックに混乱しないようにするためだとか言われている。結局無声映画時代にアート系映画が製作されることはなかった。

また、専門誌や批評が定期的に刊行され始めたのもこの時期だった。無声映画期には45もの専門誌が登場し、その全てが映画について取り扱っていた。


ハンガリー映画史③ 戦間前期 来なかった黄金時代 に続く。

※ハンガリー映画史これまで

ハンガリー映画史① 黎明期(1896~1910)
ハンガリー映画史② 繁栄の時代(1910~1919)
ハンガリー映画史③ 戦間前期 来なかった黄金時代(1919~1925)
ハンガリー映画史④ 戦間中期 復活の兆し(1925~1932)
ハンガリー映画史⑤ 戦間後期 コメディ黄金時代(1932~1939)
ハンガリー映画史⑥ 第二次大戦期 メロドラマの時代(1939~1945)
ハンガリー映画史⑦ 第二共和国時代の短い期間(1945~1948)
ハンガリー映画史⑧ ステレオタイプと復古戦前の時代(1948~1953)
ハンガリー映画史⑨ 社会批判と詩的リアリズムの時代(1953~1956)
ハンガリー映画史⑩ 人民共和国時代初期 静かなる移行期(1956~1963)
ハンガリー映画史⑪-A ハンガリー映画黄金時代 社会批判、リアリズム、歴史の分析(1963~1970)
ハンガリー映画史⑪-B ハンガリー映画黄金時代 ハンガリアン・ニューウェーブ!!(1963~1970)
ハンガリー映画史⑪-C ハンガリー映画黄金時代 日常の映画と商業映画(1963~1970)
ハンガリー映画史⑫-A 新たな道を探して 耽美主義と寓話(1970~1978)
ハンガリー映画史⑫-B 新たな道を探して ドキュメンタリーとフィクション(1970~1978)
ハンガリー映画史⑫-C 新たな道を探して ドキュメンタリー、風刺、実験映画(1970~1978)
ハンガリー映画史⑬-A 二度目の黄金時代へ 芸術的な大衆映画(1979~1989)
ハンガリー映画史⑬-B 二度目の黄金時代へ 80年代のドキュメンタリー(1979~1989)
ハンガリー映画史⑬-C 二度目の黄金時代へ 格差の拡大と映画の発展(1979~1989)
ハンガリー映画史⑬-D 二度目の黄金時代へ 新たな語り口とその様式化(1979~1989)
ハンガリー映画史⑬-E 二度目の黄金時代へ 繊細さを持った映画たち(1979~1989)
ハンガリー映画史⑭ そして現代へ (1990~)

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