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ハンガリー映画史⑬-A 二度目の黄金時代へ 芸術的な大衆映画(1980~1989)

ハンガリー映画といえばネメシュ・ラースロー『サンセット』が公開され、エニェディ・イルディコ『私の20世紀』やタル・ベーラ『サタンタンゴ』がリバイバル上映される今年は正にハンガリー映画イヤーと言えるかもしれない。

新たな道を模索したハンガリー映画界はドキュメンタリーという分野から多くの手法を吸収することで、新たな黄金時代を築き始めた。今回は共産主義政権が崩壊する前夜にもう一度花開いたハンガリー映画二度目の黄金時代についてご紹介!例の如く長くなってしまうので分割してお届け!

・大衆的芸術映画

Sándor Pálは、失われた幻影に取って代わる、共同体の神話を再創造するような表現手法を携えた"大衆的芸術映画"というジャンルを開拓した。特に『Szabadíts meg a gonosztól (Deliver Us from Evil)』(1978)は、そのジャンルノ代表的な作品とされている。二次大戦期、ブダペストの戦いで終末感が漂っていた頃、ある一家のコートが盗まれるという事件が発生し、結果として一家は名誉も失う。そして、泥棒の母親はどうにかして良い評判を再構築しようとして、予期せず友人や援助者を発見する。理想的な共同体が今一度現実となったのだ。この映画の登場人物たちはロマンチックであり、存在出来たはずだが実現し得なかった"神話"を再構築したポストモダン的な人々だった。

コミュニティに属したいというノスタルジックな憧れは、ブダペストの中産階級ユダヤ人たちに向けられており、事実彼らもある種の宗教的・文化的なコミュニティに属していた。Gárdos Péterは、この社会的な環境を自身の映画に落とし込むことに成功した。『Uramisten (The Philadelphia Attraction)』(1984)では、孤独で寛大なイリュージョニストと足が不自由なイカれた曲芸師の奇妙な関係を描いている。『Szamárköhögés (Whooping Cough)』(1986)では、家族三世代のグロテスクな関係を、『A hecc (Just for Kicks)』(1988)は骨董屋のトラジコメディを、『A Skorpió megeszi az ikreket reggelire (The Scorpio Eats Up the Gemini for Breakfast)』(1992)は家族に殺されると勘違いした少年を、『A brooklyni testvér (The Brother of Brooklyn)』(1994)では、生き別れになった兄弟をそれぞれ描いている。俳優Garas Dezsőはこれら全ての映画に出演しており、カビ臭い伝統やアイデンティティの変わらない神話的部分を擬人化したような、唯一無二のサブキャラを熱演してくれたのだ。

ベレメーニ・ゲーザ(Bereményi Géza)は、70年代に詩作活動や脚本やチェ・タマーシュ(Cseh Tamás)への歌詞提供などで有名になった。歴史上の出来事を基にした長編デビュー作『A tanítványok (The Disciples)』(1985)では、戦間期に教育を再建しようとしたものの、インテリ層の援助も虚しく失敗するというものだった。長編二作目『ミダスの手 (Eldorado / The Midas Touch)』(1988)は、1945年から1956年まで設置されていた市場で王だったシャンドール・モノリという男の物語を描いている。この偉大で一見すると無敵に見えるじいちゃんが、一家の財産や未来を守るはずが、あらゆるトラブルから守られてきた不甲斐ない孫によって、じいちゃんの夢が破壊される様を描き出した。映画の舞台は50年代であるが、ベレメーニは明らかに80年代を念頭に置いている。例えば、象徴的な場所である"パブ"は、非公式の関係や取引を行う場所としての背景を提供している。

・コミュニティの神話

一方、コミュニティの神話も一時的ではあるが、ノスタルジーと現実逃避によって生き永らえていた。

フェレンツ・アンドラーシュ(András Ferenc)の『ザ・バルチャー 哀しみの叛逆 (Dögkeselyű / The Vulture)』(1982)は神話的な孤独のヒーローを中心に据えることで、ある種の西部劇となっている。世界は、というより下層社会は、この手の英雄が"内なる価値"を諦めるのを望んでいたのだが、この作品の主人公はそれが出来なかったために葛藤は未解決のまま残されてしまった。扱っているテーマとは裏腹に、スリラー映画のようなプロットとこれまでにないカーチェイスシーンによって、映画は大ヒットした。

サボー・イシュトヴァンは『コンフィデンス 信頼 (Bizalom / Confidence)』(1979)以降、アイデンティティと共同体を求める風刺的な物語から離反してしまった。二次大戦期、同じ場所に暮らすことになった見知らぬ男女が互いに惹かれ合うという同作は、非常に感動的な心理ドラマであり、監督は脚本に口出しを止めてしまったものの、それでも完璧に内面まで描写しきっている。

続くメフィスト (Mephisto)(1981)はクラウス・マンの小説が原作、主演はクラウス・マリア・ブランダウアーという前例のないキャスティングが話題となった。ナチ時代のドイツにおける芸術と権力の複雑な関係を描いた同作は、古典的な構造に客観的な目線、物議を醸すであろう人物造形、申し分なく機能的な映像美を見事にまとめあげている。同作では印象的な顔のアップが多用されており、その時代時代における主人公の人となりの変遷が、その終焉に至るまで強調される。また、人と空間の関係も重要な側面であり、人間スケールの部屋から劇場、そしてラストのスタジアムに至るまで拡大し続ける空間を描いている。『メフィスト』はアート系映画であると同時に大衆映画でもあり、ハンガリー映画史上初めてアカデミー外国語映画賞を受賞した。

『メフィスト』は更に後に続く『連隊長レドル (Redl ezredes / Colonel Redl)』(1984)と『ハヌッセン (Hanussen)』(1988) を併せて人間と権力、権力への狂気的な欲望によって身を持ち崩す男についての三部作を構成している。と同時に、人間の自主性がどこまで保存され制限されうるかという試行とも取ることができる。サボー・イシュトヴァンはヤンチョー・ミクローシュと同じような疑問を持っていた。そして、ヤンチョーが風刺的で神話的な語り口を好んだのに対して、サボーはより具体的な人となりや周辺環境から出発して、人物や状況をより古典的で現実的な方法を以て示した。しかし、双方パーソナリティの失敗と敗北という結末を迎えるのは同じだった。


ハンガリー映画史⑬-B 二度目の黄金時代へ 80年代のドキュメンタリー につづく

※ハンガリー映画史これまで

ハンガリー映画史① 黎明期(1896~1910)
ハンガリー映画史② 繁栄の時代(1910~1919)
ハンガリー映画史③ 戦間前期 来なかった黄金時代(1919~1925)
ハンガリー映画史④ 戦間中期 復活の兆し(1925~1932)
ハンガリー映画史⑤ 戦間後期 コメディ黄金時代(1932~1939)
ハンガリー映画史⑥ 第二次大戦期 メロドラマの時代(1939~1945)
ハンガリー映画史⑦ 第二共和国時代の短い期間(1945~1948)
ハンガリー映画史⑧ ステレオタイプと復古戦前の時代(1948~1953)
ハンガリー映画史⑨ 社会批判と詩的リアリズムの時代(1953~1956)
ハンガリー映画史⑩ 人民共和国時代初期 静かなる移行期(1956~1963)
ハンガリー映画史⑪-A ハンガリー映画黄金時代 社会批判、リアリズム、歴史の分析(1963~1970)
ハンガリー映画史⑪-B ハンガリー映画黄金時代 ハンガリアン・ニューウェーブ!!(1963~1970)
ハンガリー映画史⑪-C ハンガリー映画黄金時代 日常の映画と商業映画(1963~1970)
ハンガリー映画史⑫-A 新たな道を探して 耽美主義と寓話(1970~1978)
ハンガリー映画史⑫-B 新たな道を探して ドキュメンタリーとフィクション(1970~1978)
ハンガリー映画史⑫-C 新たな道を探して ドキュメンタリー、風刺、実験映画(1970~1978)
ハンガリー映画史⑬-A 二度目の黄金時代へ 芸術的な大衆映画(1979~1989)
ハンガリー映画史⑬-B 二度目の黄金時代へ 80年代のドキュメンタリー(1979~1989)
ハンガリー映画史⑬-C 二度目の黄金時代へ 格差の拡大と映画の発展(1979~1989)
ハンガリー映画史⑬-D 二度目の黄金時代へ 新たな語り口とその様式化(1979~1989)
ハンガリー映画史⑬-E 二度目の黄金時代へ 繊細さを持った映画たち(1979~1989)
ハンガリー映画史⑭ そして現代へ (1990~)

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