見出し画像

JW440 出雲国造

【崇神経綸編】エピソード15 出雲国造


第十代天皇、崇神天皇(すじんてんのう)の御世。

紀元前38年、皇紀623年(崇神天皇60)秋。

大吉備津日子(おおきびつひこ)(以下、芹彦(せりひこ))と武渟川別(たけぬなかわわけ)(以下、カーケ)は、出雲国(いずも・のくに:現在の島根県東部)の振根(ふるね)討伐に向かった。

系図(芹彦、カーケ)
地図(出雲出兵)
系図(振根)

「日本書紀(にほんしょき)」は、簡潔に記すが、この物語では、会話を盛り込みたい。

芹彦「・・・ということで、振根より、出雲国造(いずも・の・くにのみやつこ)の位(くらい)を奪い、これよりのちは、謀反人(むほんにん)として扱う!」

振根「何を言っちょうだ(何を言ってるんだ)! わしは、出雲君(いずも・のきみ)だぞ!? 出雲国造になった覚えは無い! 勝手に攻め込んでおいて、謀反人とは、聞いて呆れるぞ!」

カーケ「神宝を献上したというのに、何を言っているのかね? 冗談も、休み休み言うべきだぜ。」

振根「おのれぇぇ。謀(はかりごと)とは、片腹痛し! 決して許さんぞ!」

芹彦「許す、許さぬは、こちらが決めること! 観念(かんねん)しろぃ!」

カーケ「勅命(ちょくめい)により、逆賊(ぎゃくぞく)、振根を討つぜ! 覚悟ぉぉ!」

ザシュ!

振根「こ・・・このような・・・。わ・・・わしは、認めんぞ・・・。このような・・・グフッ。」

こうして、振根は討ち取られ、振根の弟、甘美韓日狭(うましからひさ)(以下、カラピー)の息子、鸕濡渟(うかずくぬ)(以下、ウカズ)が、出雲国造に就任したのであった。

系図(カラピー、ウカズ)

ウカズ「父上? これから、出雲は、どうあるべきなのでしょうか?」

カラピー「息子よ。しばらくは、様子を見ようではないか。大王(おおきみ)の御心(みこころ)は、今、穏(おだ)やかではない。出雲の大神を祀(まつ)るのは、控(ひか)えようぞ。」

今回の件で、出雲は、ヤマトを憚(はばか)り、大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)への祭祀(さいし)を中断したのであった。

するとそこに、芹彦と「カーケ」がやって来た。

ウカズ「これは、これは、芹彦殿と『カーケ』殿では、ござりませぬか。」

芹彦「うむ。此度(こたび)、国中(くんなか:奈良盆地)の三輪山(みわやま)より、大物主神(おおものぬしのかみ)や事代主神(ことしろぬしのかみ)を勧請(かんじょう)する運びとなったぞ! それゆえ、これを報せに参った! 勧請とは、神霊を招くということじゃ!」

地図(三輪山より勧請)

カラピー「来待神社(きまちじんじゃ)にございますな?」

ウカズ「なんでも、ヤマトから祭神が来るのを待ったことから『来待』になったそうですな?」

カーケ「その通りだぜ。そして、鎮座地(ちんざち)は、島根県松江市(まつえし)の宍道町上来待(しんじちょう・かみきまち)になるんだぜ。」

地図(来待神社)
来待神社(鳥居と拝殿)

芹彦「来待神社の創建は、今の大王の御世としか書かれておらぬ! しかし、流れから見ても、出雲が、ヤマトに与(くみ)したのちのことと考え、此度の紹介となったのじゃ!」

カラピー「大国主大神を祀らない代わりに、大物主神を祀ることになったと?」

カーケ「その可能性も否(いな)めないんだぜ。」

なにはともあれ、来待神社が創建されたのであった。

それから数か月後のこと・・・。

ここは、磯城瑞籬宮(しきのみずかき・のみや)。

地図(磯城瑞籬宮)

二人の女性が参内(さんだい)していた。

その二人とは・・・。

次回につづく

この記事が参加している募集

日本史がすき

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?