情報を受け取って、咀嚼して解釈して、発信して議論して、何かを生み出したい。
情報を受け取ることは誰にでも出来る。
マジで誰にでも出来る。私たちの誰もが、無意識で日常的にそれをやっている。
たとえば、
これは「情報」である。
野球のみならず昨今ワイドショーを賑わしている旧統一教会などを含め、どんなニュースを見ても、私たち視聴者の大多数は情報を受け取る、ということだけで終了する。
「へぇ〜、大谷くんまた打ったんだぁ」
「ジャッジってあんなにゆったりなフォームなのにHR打ててすごいなぁ」
「旧統一教会と政治の絡みは怖いなぁ」
とかなんとか言いながら朝ご飯のウィンナーをモグモグ食べて、以上、あらっした、レッツゴーである。
日曜の午前中のワイドショー、あれを私たちはなぜ見てしまうのだろう?と考えた時に思うのは「情報の解釈の仕方」を提示してくれるからだ。
私たちがニュースを見て、単に情報を受け取って終わっているところに、その道の専門家の意見や、好きな芸能人がそのニュースに対してどう思っているのかを知ることが出来るからこそ、なぜだか見てしまう。
その解釈の仕方が、思っても見ないような解釈の仕方でスッキリと発信されていると、これ不思議なことにファンになってしまう。
それはたとえば、ホリエモンであり、成田悠輔氏やひろゆき氏、宮台真司氏であり、芸能人でいえば松本人志氏や、野球で言えばYouTubeで古田敦也氏がやっているような独自目線での野球解説などがその代表であろう。
情報に対して「独自の解釈」が加えられることによって、情報はブラッシュアップされて深みを持つようになる。だから見てしまう。
ところがここには問題がある。
どんな問題かというと、
私たち視聴者側はこの段階でもまだ「情報を受け取っているだけ」という点である。咀嚼された情報を受け取っている「だけ」なのだ。
私個人としては、ここからさらに一歩進めたい。今記事のタイトルは、
「情報を受け取って、咀嚼して解釈して、発信して議論して、何かを生み出したい」
であるが、思うに私は「発信して議論」したいのだ。受け取るだけはイヤだ。情報を受け取るだけに留まらず「私個人の意見・解釈」を吐き出したいのである。そして同時に「他者の意見・解釈」を聞きたいのである。
情報を料理に置き換えると、私たちはレストランに行って、出される料理をモグモグ食べているだけだ。その素材へのこだわりやなぜレストランを始めたのか、みたいなウンチク話を聞いて一層満足度を高める。
それだけ。だけど足りない。
料理を作り合いたいのだ。
それぞれのこだわりをもって、それを食べ合い、その食材を選んだ背景を聞き、褒め合い、今後の自分の料理に生かして、また食べてほしいのだ。
カッコつけた言い方をすると「古代ギリシャのような議論の場を作りたい」のである。
古代ギリシャには「アゴラ」と呼ばれる集会場があったらしい。
アゴラを作りたいのだ。
そこから何が生まれるのかは分からないが、やっぱりそういう場所が作りたい。
なぜアゴラを作りたいかと言えば、明確な理由は出てこないけれど、たぶん人と話したいんだと思う。
この記事にも書いたが、最近はスマホの登場で人と人の繋がりがより希薄化し、何も考えずに口を開けて情報を受け取るだけのサイボーグが増えてしまったように思う。私を含めて。
これでは人生がつまらないではないか!
さらに以下の記事でも書いたが、私たちには友だちがいない。理由なく会えて、何かがあった時に助けあえるような直接的相互扶助の関係がない。
やっぱり友だちがいないのはつまらないではないか!家で家族と過ごして、ベタな会話をして職場に行き同僚とこれまたベタな会話をして家に帰る。
そんなことでいいのか?
え?それでもいい?ありがとう。
毎日に進歩もなく、日常を過ごして誕生日を迎えて「あぁまた歳をとってしまった」と思うだけでいいのか?
え?それでもいい?あざます。
「あの人はマラソンを始めたらしいけど、私には無理だなぁ、始めたいという気持ちはあるけど、きっかけがなくてねぇ」と来年も言い続けるのか?
え?言い続ける?
すいませんでした。
私はアゴラを作りたい。
みんなが集まる場所を作りたい。
分からないけど、仮にアゴラを作ったとする。そこで繰り広げられる、大谷翔平選手を題材にした会話例を考えてみると、
いや、めっちゃアゴラ!
めっちゃアゴラっぽい!!
アゴラが何なのか分からないまま書いてるけど、これめっちゃアゴラ!説明できないけど建設的!アゴラ的だ!
これで何が生まれるかは分からないけど、1人だけで悩み、考えているだけでは絶対に出てこない何かがアゴラにはありそうだ!
きっとアゴラは毎日なのか、毎月5のつく日に開催されていて、そこに行くことは強要されない。なんとなくフラッと立ち寄ると誰かがそこにいる。
そういう場所が作りたいのである。
これからより良く生きていくためには、他者との関わりを捨ててはダメだ。
以前、コミュニティに関する私なりの解釈を記事にまとめた。そういう場所を作りたい。
「情報を受け取って、咀嚼して解釈して、発信して議論して、何かを生み出したい」
そこから何が生み出されるかは分からないが、無いよりは絶対にあった方がいい。無論、すでにこういった場所がある地域にお住まいの方はそれを続けていけば良いと思う。
少なくとも私が住む札幌にはそういう場所はない。
いや、あるか。あるな。
ホリエモンが言っていた。
「すべての飲食店は今後スナック化する。なぜならそこにみんなが集まり理由もなく喋ることが出来るから」
たしかに。スナックだ。
でもなぁ、スナックは違う気がするんだよなぁ。と思考が堂々巡りを続けるのだが、そもそもこういう話を出来る場所が欲しいのである。自然発生的に出来たらいいよね。
というわけで「札幌にアゴラを作る」というライフワーク的な目標を掲げて、今後その進捗を発信できれば嬉しい。変なコミュニティではなく、なんだか参加したくなるような、そういう場所を作ろうと決心するのである。
…
そんな決意を胸に秘め、またとある喫茶店へと足を運んだ。そこで驚きの光景を見た。
老いも若きも、男も女も、みんながみんな集まってそれぞれがニコニコしながら思い思いの会話を楽しんでいるではないか。
うーん、これはアゴラなどすでに出来上がっているなぁ、なんて肩透かしを食らった気分になる。
私のアゴラを作る。
そうか、欲しいのは私のアゴラか。
なんて寂しい気分になったり。
コミュニティ、コミュニケーションに関して意見があれば、ぜひ気軽にコメントください。知見を広げるべく、みなさんのお力を貸してください。
〈追記2022.10.04〉
力をお借りした結果、こんなプロジェクトが走り出しました。noteエグ。
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