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哲学的エッセイ

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哲学的エッセイを目指しました。
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心身一元論

心身一元論

 心身統一合氣道という合気道の一流派がある。ここでは心と身体は本来一つであると考える。

 心には心の法則があり、身体には身体の法則がある。この二者は別々の働きや性質がある。心は目に見えない。思考や想像力、感情、意識、欲求など。形はないが確かに存在する。一方、身体は目に見える。体格、運動、食事、仕草、呼吸など。これは形があり明らかに存在する。この二者は別物と捉えがちだが、これらが元々一つのものが二

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私の哲学入門

私の哲学入門

 普段生活をしていて、ふと、「なぜ」あるいは「これは何だろう」と思うことはないだろうか。

 友人と話していて、なぜここで笑うのか、どうしてそういう態度を取るのか。誰しもそんな疑問を感じることがあるだろう。それが哲学になる。哲学は日常生活の床下に潜んでいる。それは広くて、深い。難しい専門用語を並び立てる哲学も確かにある。だが、哲学はそれに限ったことではない。それは日常に寄り添っている。むしろ、専門

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志向性という着眼点

志向性という着眼点

 志向性の概念は、フッサールが創唱した現象学と密接に関わっている。ドイツで過ごしたフッサールという哲学者は1900年前後に活躍した現代思想の担い手の一人である。これは現象学の対概念ノエシス/ノエマ(作用/対象)と関連づけられる。志向性は心を考える上で大きなヒントになる。

 例えば、私がコップを持つ。これも志向性の性質が関わっている。コップという対象に<向かって>手を伸ばし、コップをつかむ。これが

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主観、客観、真理

主観、客観、真理

 もし自分が死んでもこの世界はある。あるだろう。自分では確かめようがないと思うが。私には霊感がないので、霊界のことは分からない。話で聞くだけ。

 自分がいなくなってもこの世があることは客観的な事実。今まで生きてきた経験からそう思う。これは経験則に基づく予測になる。だが、自分という観測者がいないので確かめようがない。それでは自分が感じ、考え、経験した事実が総てなのか。これは主観的事実。主観的事実と

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静動一致

静動一致

 静動一致。
 コマが激しく回るときと、地球が高速で自転するときは似ている。コマが回っているときは止まって見える。同じように、私が静かに椅子に座っているときも、地球は高速で回っている。このコマや地球の動中の静は「静止」という。これは止まって見えるにも関わらず、大きなエネルギーを秘めている。静止は何かを生み出す力がある。一方で、回っていないコマ。これも止まっている。これを「停止」という。停止にはエネ

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信じるということ

信じるということ

「思弁が終る、まさにそのところで信仰が始まる」(キルケゴール)

「信仰と懐疑とは、互に相応ずる。それは互に補いあう。懐疑のないところに、真の信仰はない」(ヘッセ)

 信じるとは何だろうか。
 ある対象に疑いがなくなったとき、信じることができる。果たしてそれは可能だろうか。逆に、当たり前なことを疑うから世界が広がることがある。デカルトは「我思う、故に我あり」と喝破した。自分の思うことは疑うことが

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愛について

愛について

 愛とは元氣づけることだと思う。自他共に対して。
 例えば、愛する人が風邪を引いたとする。そのとき自分の「愛の力」で抱きしめても風邪は治らない。やはり風邪薬で治す。ただ、治るまでに看病して身の回りの世話をし、元氣づけることはできる。それが愛と呼ばれるものではないか。困難に直面したときにその人の真価が問われる。そのときにその人の愛を確認することができる。

 一方で、自愛というものもある。自分をいた

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