嘉道

誰もが満たされない思いを抱えながら生きている。自分だけではない。いま一歩、また一歩。い…

嘉道

誰もが満たされない思いを抱えながら生きている。自分だけではない。いま一歩、また一歩。いずれ、それが道になる。 関心分野: 哲学、氣の呼吸法、音楽鑑賞(ジャズ、クラシック、洋楽のオールディーズ、民謡など)

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  • 哲学的エッセイ

    哲学的エッセイを目指しました。

  • 音楽のエッセイ

    音楽のエッセイを書きました。

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    本を読んだ感想を書きました。

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最近の私は、同じnote内の田村息信というペンネームで活動しています。よろしければ、そちらをご覧ください。この嘉道のページも削除しないつもりですが、しばらく中断します。悪しからず、ご了承ください。田村息信の方は今年の2月から始めました。よろしくお願いします。

    • 心身一元論

       心身統一合氣道という合気道の一流派がある。ここでは心と身体は本来一つであると考える。  心には心の法則があり、身体には身体の法則がある。この二者は別々の働きや性質がある。心は目に見えない。思考や想像力、感情、意識、欲求など。形はないが確かに存在する。一方、身体は目に見える。体格、運動、食事、仕草、呼吸など。これは形があり明らかに存在する。この二者は別物と捉えがちだが、これらが元々一つのものが二様の現象になったと考える。すると、元々一つだった心と身体が一体になったとき、大き

      • 私の哲学入門

         普段生活をしていて、ふと、「なぜ」あるいは「これは何だろう」と思うことはないだろうか。  友人と話していて、なぜここで笑うのか、どうしてそういう態度を取るのか。誰しもそんな疑問を感じることがあるだろう。それが哲学になる。哲学は日常生活の床下に潜んでいる。それは広くて、深い。難しい専門用語を並び立てる哲学も確かにある。だが、哲学はそれに限ったことではない。それは日常に寄り添っている。むしろ、専門用語を使う哲学も元々は日常経験から始まる。その経験を土台にしないと、その哲学に説

        • 山下達郎伝

           山下達郎。  日本の音楽界、特にポップスの分野で長年活躍し、今も現役。1953年生まれ。東京生まれの東京育ち。生粋の江戸っ子。シンガーソングライター。良く吟味された音作りから、「音の職人」とも呼ばれる。彼はテレビには出ない。ラジオや雑誌が主な出演メディア。自身のラジオ番組「山下達郎 サンデー・ソングブック」に毎週出演中。  彼は「若いうちの苦労は買ってでもしよう」と人に言うほどの苦労人。ミュージシャンに憧れる人たちの多くがそうであったように、彼もまた食うや食わずのアルバイト

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        • 哲学的エッセイ
          7本
        • 音楽のエッセイ
          2本
        • 読後感
          2本

        記事

          ジャズの泥臭さ

           音楽のジャズの世界では、泥臭くて良い、と言うことがある。  例えば、ピアノのBobby Timmons(ボビー・ティモンズ)・トリオのアルバム『In Person』がその好例となる。  案外、きれいなお姉さんが『イン・パーソン』を好んでいたりする。それは「磁力の原理」。これは同極では反発し合い、異極で結合する原理をいう。この原理は、友人関係、夫婦関係などでも通用すると思う。互いに反対の性格の人同士の方が相性が良い場合がある。きれいなお姉さんの音楽の好みも、それに当てはまる。

          ジャズの泥臭さ

          志向性という着眼点

           志向性の概念は、フッサールが創唱した現象学と密接に関わっている。ドイツで過ごしたフッサールという哲学者は1900年前後に活躍した現代思想の担い手の一人である。これは現象学の対概念ノエシス/ノエマ(作用/対象)と関連づけられる。志向性は心を考える上で大きなヒントになる。  例えば、私がコップを持つ。これも志向性の性質が関わっている。コップという対象に<向かって>手を伸ばし、コップをつかむ。これが志向性。また、ノエシス/ノエマという対概念も関わる。ノエマというコップの対象に、

          志向性という着眼点

          主観、客観、真理

           もし自分が死んでもこの世界はある。あるだろう。自分では確かめようがないと思うが。私には霊感がないので、霊界のことは分からない。話で聞くだけ。  自分がいなくなってもこの世があることは客観的な事実。今まで生きてきた経験からそう思う。これは経験則に基づく予測になる。だが、自分という観測者がいないので確かめようがない。それでは自分が感じ、考え、経験した事実が総てなのか。これは主観的事実。主観的事実と客観的事実。これは認識論になる。主観に重きを置くと、カントに始まるドイツ観念論に

          主観、客観、真理

          書き言葉としての日本語 (水村美苗『日本語が亡びるとき』を読む)

           水村美苗という作家がいる。  私は『日本語が亡びるとき』で彼女を知った。  これは全体としては日本語論になると思う。だが、書き出しは小説のように始まる。アメリカのアイオワ大学が主催した、世界各国の作家や詩人を招いたプログラムに彼女が参加した体験談を皮切りに。ユーモアを交えて次々と読ませる。全くの他人である読み手を自分の世界にいざなう作家らしい腕の冴えを感じる。そこに彼女の言葉への考察が少しずつ加わってゆく。  次の章の「パリでの話」では、日本語のあるべき姿を切々と訴えてい

          書き言葉としての日本語 (水村美苗『日本語が亡びるとき』を読む)

          静動一致

           静動一致。  コマが激しく回るときと、地球が高速で自転するときは似ている。コマが回っているときは止まって見える。同じように、私が静かに椅子に座っているときも、地球は高速で回っている。このコマや地球の動中の静は「静止」という。これは止まって見えるにも関わらず、大きなエネルギーを秘めている。静止は何かを生み出す力がある。一方で、回っていないコマ。これも止まっている。これを「停止」という。停止にはエネルギーがないので、何も生み出さない。  これは単なる言葉遊びではない。一面の真理

          静動一致

          信じるということ

          「思弁が終る、まさにそのところで信仰が始まる」(キルケゴール) 「信仰と懐疑とは、互に相応ずる。それは互に補いあう。懐疑のないところに、真の信仰はない」(ヘッセ)  信じるとは何だろうか。  ある対象に疑いがなくなったとき、信じることができる。果たしてそれは可能だろうか。逆に、当たり前なことを疑うから世界が広がることがある。デカルトは「我思う、故に我あり」と喝破した。自分の思うことは疑うことができない。彼はその言葉に至るまでに、徹底的にあらゆるものを疑った。数学の真理も疑

          信じるということ

          愛について

           愛とは元氣づけることだと思う。自他共に対して。  例えば、愛する人が風邪を引いたとする。そのとき自分の「愛の力」で抱きしめても風邪は治らない。やはり風邪薬で治す。ただ、治るまでに看病して身の回りの世話をし、元氣づけることはできる。それが愛と呼ばれるものではないか。困難に直面したときにその人の真価が問われる。そのときにその人の愛を確認することができる。  一方で、自愛というものもある。自分をいたわる。自己管理とも言う。まず、自分が自分のことを好きにならなければ、誰が自分を好

          愛について

          あいさつ

          失礼します。初めまして。ペンネームで嘉道といいます。 ここでは本を読んだ読後感、音楽を聞いて感じたこと、日常の雑感などをつれづれに書ければと思っています。 本は主に哲学書を10年ほど前から読んできました。独学です。入門書も読まずに、興味の赴くまま、手当たり次第に読んできたので、まともに理解もできないままでした。それでも、読み終わったときの達成感がたまらず、今に至ります。プラトン、アリストテレス、スピノザ、カント、ヘーゲル、ハイデガー、サルトル、メルロ=ポンティ、デリダ、ド

          あいさつ

          ドゥルーズ『差異と反復』を読む

          ドゥルーズ『差異と反復』(河出書房新社)を読了。 ドゥルーズはフランス現代思想の代表的な人物の一人。他にその主な哲学者にはデリダ、フーコーがいる。本書はドゥルーズの代表作であり、現代思想には外せない一冊。 本書は難解で知られている。一読しただけでは、私も理解できなかった。哲学者の千葉雅也は一読しただけでは理解できず、分かるまでに5年かかったと言う。玄人の哲学者でもそうなのだから、まして、素人の私に理解できるはずがない。この逸話からも本書の難しさを窺い知ることができる。それ

          ドゥルーズ『差異と反復』を読む