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信じるということ

「思弁が終る、まさにそのところで信仰が始まる」(キルケゴール)

「信仰と懐疑とは、互に相応ずる。それは互に補いあう。懐疑のないところに、真の信仰はない」(ヘッセ)

 信じるとは何だろうか。
 ある対象に疑いがなくなったとき、信じることができる。果たしてそれは可能だろうか。逆に、当たり前なことを疑うから世界が広がることがある。デカルトは「我思う、故に我あり」と喝破した。自分の思うことは疑うことができない。彼はその言葉に至るまでに、徹底的にあらゆるものを疑った。数学の真理も疑った。その果てに辿り着いたのが先の言葉である。

 冒頭のキルケゴールの言葉は、疑う思弁が消えたとき、信仰という絶対が生まれた、そう言えるのではないか。良いのか悪いのかは別にして。これは「信仰」を「信念」に置き換えてもいいかもしれない。信念に疑いが入れば、それは信念とは言えない。懐疑があれば、自信に満ちた行動はないからだ。やじろべえのように、迷い続けて心が揺れ続けても、決して倒れることはない。これも一つの信念だと思う。この信念を信仰と言ったら、始めのヘッセの言葉と通じるのではないか。ヘッセの言葉は、信仰や信念に疑いはつきものだと言っている。

 信仰は他者に対して救いを求める外向きの面がある。一方、信念は自己に対して自分を貫く内向きの面がある。そういう違いはあるが、共通点もある。両者には共に逆境を脱するためという目的がある。他者に対する信仰も、自己に対する信念も、自分の中で信じるという点では変わりがない。では、人は何を信じるのか。ここでは言葉を足がかりに考えてみたい。

 例えば、同じ言葉を言われたとしても、この人の言うことなら信じることができて、あの人の言うことは受け入れられない、ということがある。これは語り手と聞き手との信頼関係の違いによる。大げさに言えば、語り手と聞き手の付き合ってきた歴史の違い。その二人の紆余曲折して信頼関係を築くまでに至った間柄の歴史。時に対立し、冷めた関係になり、再び互いに歩み寄った双方の時間の共有。その間柄の信頼関係の構築が、「この人が言うことなら、信じることができる」となる。互いの心がある程度通じ合って、初めて生まれる信頼の間柄。それは相手の顔が見える関係とも言うことができる。互いに相手の言動が想像できる間柄。語り手の人柄がうかがえる間柄。信じるとは、相手が在って初めて生まれること。もしその相手が自分なら、それは自信になる。その自信も他者がいるから湧いてくる。和辻哲郎が言うように(*)、人間とは人の間と書く。だから、人間という世の中、世間がある。

(*)和辻哲郎『倫理学 1』岩波文庫、26–27頁、2007年.

 信じているから社会が成り立つ。
 ラーメン屋でラーメンを食べる。ラーメン屋でパンを出したりはしない。きちんとラーメンを出す。旨いかまずいかは別として。そういう最低限の約束がある。その約束は信用している。信用しているから客は金を払う。店はその約束を守ったから金をもらう。
 それが資本主義という社会。金を介した信用社会。その約束を守る信用社会は、法によって保護されている。その最低限の約束を守らなかったら、営業停止などの強制力が法によって働くため。だから、資本主義社会は法治国家でもある。つまり、法に反することをすると、生きづらくなる。そのため、法の下に信頼関係が築かれる。法が適正に機能しているから、安心して外出できる。自分の周囲の世界を信じることができる。この意味で、社会を信じることができる。
 社会を信じられるということは、自分も社会の法を守っていることになる。違法になるような、他人への度の過ぎた迷惑をかけると、刑務所に入れられる。不自由な生活を強いられる。
 相手が法を守り、自分も法を守るから、互いに相手を信じることができる。安心して暮らすことができる。
 人は一人では生きていけない所以である。一人で生きているように思えても、実は生かされている。そこから感謝の氣持ちが湧き上がる。

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