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心身一元論

 心身統一合氣道という合気道の一流派がある。ここでは心と身体は本来一つであると考える。

 心には心の法則があり、身体には身体の法則がある。この二者は別々の働きや性質がある。心は目に見えない。思考や想像力、感情、意識、欲求など。形はないが確かに存在する。一方、身体は目に見える。体格、運動、食事、仕草、呼吸など。これは形があり明らかに存在する。この二者は別物と捉えがちだが、これらが元々一つのものが二様の現象になったと考える。すると、元々一つだった心と身体が一体になったとき、大きな力を発揮する。心は心の法則のまま、身体は身体の法則のまま、心身が一体となるのである。何かに集中しているときなどがそうである。

 元来一つのもののことをここでは「氣」と呼ぶことにする。心身統一合氣道の氣である。これは日本で生まれた合気道という武道の一流派である。この流派の合氣道では、「気」と書かず、「氣」と書く。气は天体を表わす。その中の部分の米であるが、これは中心から八方に広がることを意味する。この「米」の解釈は、心身統一合氣道の独自の考えである。つまり、氣とは、天体のように中心から八方に広がるのである。氣は出ていくものである。出ていくから、また入ってくる。丁度、海の中で水を手で囲い、これが私だと言っているようなものである。手で囲った水は確かに私のものだ。だが、海の中の水である。本来、交流しているのが当たり前である。これを生きていると言う。その一方、手で囲った水の交流が途絶えると、病氣になる。ひいては死をも意味する。氣は天地と交流しているから、生きているのである。これは生命力と言ってもいい。

 無限に小なるものの無限の集まりを総称して氣と呼ぶ。宇宙も氣なら、我々人間、動物、植物、鉱物に至るまで、ありとあらゆるものが氣でできていると呼ぶことができる。そんな氣でできている人間は、無限小の無限の集まりの総称である。この氣から心と身体が生まれた。この氣を「一」とするならば、万物は一より始まる。この一を二分の一、二分の一と縮小しても、決してゼロにはならない。どこまでいっても一である。つまり、一から始まった。逆に言えば、零より一は生じないのである。その一が無限にある。だから、その一から始まる氣は総称なのである。

 そのような氣という一元から心と身体が生まれた。氣から生まれた心と身体は本来一つである。普段、我々が見ている心身は氷山の一角である。相対的世界である。ところが、母なる天地より与えられた心身を一つにすれば、大変な力を発揮する。心身一如。スポーツ選手が心身一如で臨めば、優秀な成績を収めることができる。ピアニストが心身一如で臨めば、聴衆を感動させることができる。心身一如にはそういった大きな力を秘めている。

 心身統一合氣道の氣は、この流派の合氣道に限ったことではない。生活の中の氣として、活かすことができる。

 「力まず、たゆまず、生き生きと」

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