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主観、客観、真理

 もし自分が死んでもこの世界はある。あるだろう。自分では確かめようがないと思うが。私には霊感がないので、霊界のことは分からない。話で聞くだけ。

 自分がいなくなってもこの世があることは客観的な事実。今まで生きてきた経験からそう思う。これは経験則に基づく予測になる。だが、自分という観測者がいないので確かめようがない。それでは自分が感じ、考え、経験した事実が総てなのか。これは主観的事実。主観的事実と客観的事実。これは認識論になる。主観に重きを置くと、カントに始まるドイツ観念論になる。

 ドイツ観念論とは、カントからヘーゲルに至る、18世紀後半から19世紀の初めにかけてドイツに支配的であった哲学思潮をいう。観念論とは、世界のもつ基本的な特徴は物質にではなく、精神(観念)に見出されると主張する立場。現実世界に関心を向けるよりも、内面世界・観念世界に関心を向けるという傾向を持つ。

 その一方、客観に重きを置くと、数学や物理学に代表されるような科学的世界になる。これは世界を数で現したことになるが、目の前にコップがあるという客観的認識論もある。この場合、自分の眼前にコップという対象があり、観測者の自分とコップとは区別される。すると、客観とは自分ではない対象が外界にあるということになる。『大辞林』によると、「客観」とは、「主観の認識・行為の対象となるもの。主観に現れるもの。世界。特定の認識作用や関心を超えた一般的ないし普遍的なもの。主観から独立して存在するもの。客体。」とある。客観には、主観を元にした対象という側面と、主観を超えた、主観とは別の、普遍的存在という側面がある。だから、客観とは真理の一側面とも言える。

 真理とは、誰も否定することのできない、普遍的で妥当性のある法則や事実(『大辞林』より)。なので、石が落下する重力の事実も真理なら、人間には心があるという事実も真理となる。客観的自然も真理なら、主観的心も真理である。すると、主観も客観も真理は包摂するということになる。

 客観的自然と主観的心。人間は母という自然から生まれる。主観的な心を持って。父という種と母という器の結合で。母は人間であるが、人を生む大地と例えてみる。母という大いなる大地から人は生まれる。客観的な生物学から見れば、遺伝子の継承。先祖からの受け継ぎ。それは悠久の時を経て連綿と受け継がれてきた。この世で。父なる種と母なる大地の交わりで人はこの世に生を受ける。心を伴って。生きていく上で心は成長する。生まれ持った変わらない性格という性質がありながら、育った環境によって、心は変容していく。性格という核があり、外界との接触によって感情の変容がある。そういった心を前面に表した思想がドイツ観念論だろう。

 その一方、母という大地を生物学的に見たのが客観的科学。その意味で母は自然学の象徴と言えるのではないか。人にとって母は永遠の大地。一生越えられない存在。そんな母も両親から生まれた。その両親もさらに両親から生まれた。そうやって遡っていくと、「父母ぶも未生みしょう以前」という仏教の禅宗の言葉に行き着く。これは父や母が生まれる以前のこと。相対的な存在と思われる私という立場を離れた、絶対・普遍的な真理の立場。
 父も、母という生物学的大地も、包摂する、普遍的な真理。それが父母未生以前。これは要するに「何もないが何かあった状態」と言えるのではないか。この状態から人は生まれ、育ち、老い、死んでいく。この死も「何もないが何かあった状態」に還るのではないか。この状態は宇宙の無限にある粒子のことと思いたい。人は宇宙の中の地球、さらに母という大地より生まれ、死んで宇宙の粒子に還る。宇宙という自然に。

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