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静動一致

 コマが激しくまわるとき静に帰する如く、静は動の極致である。
 台風の眼の静かなる如く、動は静によってその力を得る。まさに静動一致である。

藤平とうへい光一『誦句しょうく集』

 静動一致。
 コマが激しく回るときと、地球が高速で自転するときは似ている。コマが回っているときは止まって見える。同じように、私が静かに椅子に座っているときも、地球は高速で回っている。このコマや地球の動中の静は「静止」という。これは止まって見えるにも関わらず、大きなエネルギーを秘めている。静止は何かを生み出す力がある。一方で、回っていないコマ。これも止まっている。これを「停止」という。停止にはエネルギーがないので、何も生み出さない。
 これは単なる言葉遊びではない。一面の真理である。

 立ち止まっている人がいるとする。
 無氣力で虚脱して立っている人は、生氣がなく、情けなく見える。「停止」である。生き生きと、でも、静かにたたずんでいる人は、頼もしく見える。「静止」である。この違いは大きい。
 できることなら、静止である静動一致でありたい。人間は静止にも停止にもどちらにも成り得る。生まれつき静止ができている人もいれば、訓練を積むことで静止ができるようになる人もいる。どちらが良い悪いではない。結果として、静止ができていれば良いのだから。

 人間は静止していると、状況に合わせて臨機応変に対応できる。
 武田信玄の「風林火山」のように。これは信玄が用いた軍旗に記された「孫子」の句である。「はやきこと風の如く、しずかなること林の如く、侵掠しんりゃくすること火の如く、動かざること山の如し」。
 人は静止の状態にあると、このように動くときには素早く動くことができ、とどまるときには微動だにしない。

 では、生き生きとした静止でいるには、どうしたら良いか。
 それは姿勢が良く、力まずにいることだと思う。「力まない」と言っても氣の抜けた虚脱状態ではない。そうではなく、力を抜いた芯のあるリラックス。それは充実感のあるリラックス。長時間その状態でいても疲れない姿勢。これが真の静止した姿勢だろう。詳しくは、藤平とうへい信一『心を静める』(幻冬舎文庫)をご覧いただきたい。

 この「静止」の考えは、藤平光一や藤平信一の心身統一合氣道の考えに支えられている。この影響が強い。だが、「静止」の考えはこの流派の合氣道に限らず、どの時代でも、どの国にも通じる普遍性があると、私は信じている。

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