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書き言葉としての日本語 (水村美苗『日本語が亡びるとき』を読む)

 水村美苗という作家がいる。
 私は『日本語が亡びるとき』で彼女を知った。
 これは全体としては日本語論になると思う。だが、書き出しは小説のように始まる。アメリカのアイオワ大学が主催した、世界各国の作家や詩人を招いたプログラムに彼女が参加した体験談を皮切りに。ユーモアを交えて次々と読ませる。全くの他人である読み手を自分の世界にいざなう作家らしい腕の冴えを感じる。そこに彼女の言葉への考察が少しずつ加わってゆく。

 次の章の「パリでの話」では、日本語のあるべき姿を切々と訴えている。今現在英語が世界を覆い尽くそうとしている中で。この本の副題には「英語の世紀の中で」とある。英語という大きな波が押し寄せる中での日本語の危機感を彼女は感じている。書き言葉としての日本語の。この章での彼女の主張は感動せずにはいられない。日本語を母語とする者にとって。

 そして、彼女の目は世界を見ている。西洋やアジアのいくつかの国々の言葉を<普遍語>、<国語>、<現地語>の三つに分けて論じてみせる。それぞれの国の言葉の世界史的な変遷を見渡しながら。その中で、書き言葉としての日本近代文学の軌跡に彼女は重きを置いている。彼女が少女時代の多感な頃に読み耽った日本の近代文学である。思い入れもひとしおだろう。ただ、自分のその思いだけではなく、大人としての今、それを世界史の中で見直して、改めてその重要性を説く。明治時代、日本が欧米の植民地にされなかったため、書き言葉としての日本語が文学を通して成熟していったこと。それでいて欧米の書物をどんどん翻訳し、日本語に取り入れたこと。そのため、あらゆる分野を日本語で考えることができ、それで書くことができること。

 彼女の意見は日本の教育にも及ぶ。子供達には、英語の前にまず日本語をしっかりと教えなければならないと。特に日本近代文学を。小学生ならまだその翻訳でもいいが、高校生になったら原文で読んでほしいという。

 そんな彼女は東京に生まれる。12歳の時、父親の仕事の都合で家族と共にニューヨークに移り住む。アメリカになじめず、改造社版「現代日本文学全集」を読んで少女時代を過ごす。イェール大学および大学院でフランス文学を専攻。のち、創作の傍らプリンストン大学などで日本近代文学を教える。著書に、『續明暗』(1990年、芸術選奨文部大臣新人賞)、『私小説 from left to right』(1995年、野間文芸新人賞)、『本格小説』(2002年、読売文学賞)などがある。

 冒頭の書名とは裏腹に彼女は日本語への愛に満ちている。

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