kento hirasue

𝟵𝟳 | 𝗳𝗶𝗹𝗺𝗽𝗵𝗼𝘁𝗼𝗴𝗿𝗮𝗽𝗵𝗲𝗿 ⁡ “遠い日の祈りが、淡い輪郭を帯びてゆ…

kento hirasue

𝟵𝟳 | 𝗳𝗶𝗹𝗺𝗽𝗵𝗼𝘁𝗼𝗴𝗿𝗮𝗽𝗵𝗲𝗿 ⁡ “遠い日の祈りが、淡い輪郭を帯びてゆく。”をコンセプトに、瀬戸内地域で活動中。 ⁡ 『𝗰𝗮𝗹𝗺』(𝘄/ 𝗺𝗮𝗻𝗷𝘂 𝗸𝗼𝗸𝗶)

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    「瀬戸内の風」の”言葉”。

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はじめまして。

改めて言うのも恥ずかしいですが、はじめまして。平末健人と言います。 これを書こうと思ったのは、最近色んな人と出会う中で、ちゃんと「はじめまして」と言える人になりたいなと思ったからです。 SNSで繋がって毎日目にするけど、遠く離れた友達ばかりで、自分以外の人にとって自分はどんな風に写っているのだろうと、気になったからです。 生い立ち 僕は1997年10月16日、京都生まれです。 4歳くらいまで大阪の鶴見で育ち、それから小2まで芦屋でマイペースに泣きべそかきながら育ちます。

    • 留める。あるいは、始まる。

      記憶とか、曖昧なものをそこに“留めて”おく。 それが写真を撮るということなんだと思う。 ⁡ 留める 止まる ⁡ これらの言葉は、 今の時代においては一見マイナスなイメージを与えるかもしれない。 ⁡ しかし、自分が留まることによって、 自分以外のあらゆる物事がそれぞれのはやさで動き出す。 ⁡ 見えるようになる 躍動する世界。 ⁡ ⁡ ⁡ ⁡ ⁡ 写真を撮ることは、 時間も記憶もそこに留めて、閉じ込める行為。 ⁡ その写真が存在することで、 自分の輪郭を知る。 ⁡ 閉じ込められた

      • 伝統と時代の間で。

        大分県西部に位置する「日田市」。 かつては幕府の直轄地「天領」として栄え、今でもその名残を多く残している。 そんな日田の中心街から車で北へ向かうこと30分。谷を川に沿ってひたすら上がったところにひっそりとあるのが「小鹿田焼の里」だ。 小鹿田焼の里は江戸の頃から300年の歴史を持つ焼き物の里で、今も尚一子相伝でその技術が受け継がれている。代表的な技術に、「飛び鉋」や「刷毛目」などがあり、土感のある素朴で庶民的な印象の器が多い。 小鹿田焼の源流は隣山の小石原焼と言われてお

        • 続いていく。

          ある日、工事現場でたまたま出会った一枚の写真。 それは、古い家族写真だった。 きっと100年以上も前の写真。 見るにそれは、 ネガフィルムが誕生するよりも前の、 写真が普及し始めた時代のもの。 そこに写る人々は、まさか100年後に僕の手に渡って こうしてまじまじと顔を見られるなんて、 思ってもみなかっただろう。 今、僕らが写真を撮るのは、 なぜだろう。 まさか遠い未来に、誰かに見てもらうことを前提として写真を撮ることはないと思う。 ただの記録として、 もしくは誰か

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        記事

          世界の片隅で。

          美しい世界の片隅で、 僕らは息を潜めている。 美しい世界の片隅で、 僕らは耳を澄ましている。 美しい世界の片隅で、 僕らはその手を掲げている。 どこへ行こうか。 何をしようか。 明日はどう生きようか。 僕らは光を探している。 この美しい世界の片隅で。

          世界の片隅で。

          風は遠くから

          僕らはまだ、 彼方の風を感じることができるだろうか。 時が経って 歳をとって それでもお互いの目を見て笑い合えるだろうか。 風は遠くからあなたのもとへ 淡い輪郭を帯びた光の粒を運んでくる。 それはぶつかり合って、耳元で囁く。 まだどこかもわからない所で 遠い日の誰かが呼んでいる。 「こっちへおいで。」 そうして僕は、光の一部になって 彼方の風に乗って 青色の只中に吸い込まれていく。 ゆっくりと沈んでいく。 (221113)

          風は遠くから

          四季の残り香

          夏の気配が消えて、朝晩は冷えた空気が漂う時期になった。 それでも、お昼の日差しは「まだ夏は終わっていない!」と言わんばかり。 ただ暑いだけじゃ、夏じゃない。 それが夏を夏たらしめる理由なのかもしれない。 夏だけじゃなくて、どの季節の終わりにも”残り香”のような日がある。 桜咲く季節に雪が降ったり、 秋のある日に突然一匹だけ蝉が鳴いていたり。 その瞬間のことを後々思い出すことはない。 「去年の夏は、1日だけ涼しい日があったよね」なんて会話が、この先、生まれることはほとん

          四季の残り香

          麒麟の横顔

          なんでもない夏の夕方。 仕事帰りに原付をぶっ飛ばす。 森を抜けて、右折して大きな県道に出ると、木々の背後から ぬぅっ っと出てきた大きな入道雲。 まるで、麒麟だ。 麒麟って言っても、アフリカにいるやつじゃなくて 江戸の人が屏風に描いたようなやつ。 なんかおっかない方。 畑の中をずーっと真っ直ぐ続く道。 ひたすらに原付を走らせる。 麒麟は段々と形を変えていく。 麒麟は夕日に向かって進んでいる。 夕日に照らされて、陰影がさらにその横顔の印象を強める。 気が

          麒麟の横顔

          夏の真ん中

          2022年7月1日。 今日は夏の真ん中のような日。 僕の中では四季は3か月ずつなので、文字通り7月は夏の真ん中。 今年の梅雨は異様に早かった。 まるで台風のように過ぎ去っていった。 庭のトマトは美味しくなるだろうな。 ナスやオクラは水が足りないと嘆いている 気がする。 恥ずかしがり屋の亀も、最近は良く日光浴をするようになった。葦簀の陰で、喉をプクプク膨らませている。 何でもないけど、幸せな時間。 何年後かに振り返った時、「2022年の夏はなんか幸せだった気がする

          夏の真ん中

          美しい世界

          今日の空は美しかった。 毎日美しいと思える光景に出会うことは少ない。 というよりも、ただ美しいと感じるための視覚が育っていないだけかもしれない。それならば話は変わってくる。 美しいとは何か。 どういう状態なのか。 ただ心が満たされていく。 安心する。 人によって様々だと思う。 けれど、僕の“美しい”は安心に近い。 ありのままで、できる限り自然な状態でその物事が存在していること。それが僕にとっての“美しい”なのだ。 “美しい”は褒め言葉じゃない。 “美しい”は

          美しい世界

          小さな物語

          去年の春。 青春を共に過ごしたデジタル一眼を売って、僕はフィルム写真家になった。 「フィルム写真家」なんて職業は実際には存在しない。 けれどもそう名乗りたいのは、僕があえてフィルムで撮ることにこだわっているからだ。 僕がフィルム写真に興味を持ち始めたのは、数年前にフィルムブームが再燃し始めた頃。 「フィルムで写真を撮ってみたい。」 初めはそれくらいの、単純な好奇心だった。 運のいいことに、元々写真をやっていたおじいちゃんからフィルムカメラをもらった。 フィルム

          小さな物語

          みんなで生きる。

          「自分は何者でもない。」 と、認めたくない人は多いと思う。 自分が“ふつう”であるということに遅かれ早かれ気づく人は多いのではないかと思う。 少なくとも僕は、僕のことを“ふつう”の人間だと思っている。特に誇れる部分もなければ、世に名を残すほどの才能もない でもこれは悲観でも諦めでもない。ただ自分を許し、認めてあげるということ。 そんな風に考えるようになってから、自ずと世界は拓けていき、こんなにも多くの命が溢れていることに気がついた。 何者かになろうともがき苦しんだ

          みんなで生きる。

          記憶の古層

          乾いた土には水を与える。 拾った種を土に蒔く。 冷たく澄んだ空気を、思い切り吸い込む。 木漏れ日を見て「綺麗だね。」と言う。 水に反射してキラキラとする光を、「美しい」と思う。 摘んだ野花を花瓶にいける 誰かが作ってくれたご飯に、手を合わせる。 食材を「この子」と呼ぶ。 飛ぶ鳥たちを見て、「気持ちよさそうだな」と思う。 太陽よりも、月を綺麗だと思う。 波の音で心が落ち着く。 僕らが普段何気なく美しいと思う事は、きっと遠い日に誰かも同じように思った事。

          記憶の古層

          繋ぎ、巡らせてゆく。

          2022年。 みなさんはどんな年にしたいですか? 僕は今年はどっしりと岡山の土を踏み締めながら、「繋ぎ、巡らせてゆく。」をテーマにして活動していきたいと思っています。 「繋ぎ手」僕は去年の暮れから「キノシタショウテン」という、岡山ではそこそこ有名なお店で働いています。メインは珈琲豆の販売と喫茶なのですが、姉妹店それぞれに個性があって面白いです。 今までの僕を知る人からすれば、「何で飲食なの?」と思うと思います。でも実は飲食には前からちょこちょこ携わっていて、他人と関わる

          繋ぎ、巡らせてゆく。

          「24歳の古書店」になりました。

          お久しぶりです。店主の平末です。 今日はご報告と共に、2021年読んだ本の中から特に印象に残った本を3冊紹介できればと思います。 一年に一度生まれ変わるお店。この度、「23歳の古書店」は「24歳の古書店」へと生まれ変わりました。理由は、店主が24歳になったからです。 実はこの古書店は、設立当初から一年に一度のリニューアルオープンをするという前提で始まっています。店主が25歳になったら「25歳の古書店」ですし、38歳になったら(そこまで続いてたら)「38歳の古書店」になる

          「24歳の古書店」になりました。

          名前がなかった頃

          僕らはいつもこの星の色んなものに囲まれて生きている。 小川が流れ、大地が揺らぎ、木々が並び、陽がさして影が躍る。 そして僕らはなぜか、“人として”しか生きることができない。その原因は間違いなく「名前」にあると、僕は思う。 僕らは生まれた時に名前を与えられる。それはこの世界から引き離され、自我を持ち、存在し始めるということ。「我」という字は、もともとノコギリを指す文字だったそう。そのうちに、世界から切り離された状態を指し示す言葉として定着していった。 言葉は、物事をモジュ

          名前がなかった頃