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名前がなかった頃

僕らはいつもこの星の色んなものに囲まれて生きている。
小川が流れ、大地が揺らぎ、木々が並び、陽がさして影が躍る。

そして僕らはなぜか、“人として”しか生きることができない。その原因は間違いなく「名前」にあると、僕は思う。


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僕らは生まれた時に名前を与えられる。それはこの世界から引き離され、自我を持ち、存在し始めるということ。「我」という字は、もともとノコギリを指す文字だったそう。そのうちに、世界から切り離された状態を指し示す言葉として定着していった。


言葉は、物事をモジュール化して「それ」と「それ以外」に分ける。そして名前は、「自分」と「自分以外」を作り出す言葉である。

人は言葉を覚える度に、より細やかに世界を見るようになっていく。昨日まではなんでもなかった些細な物事が、名前を覚える度に、より鮮やかな色彩を放つようになる。

しかし、それと同時に名前や言葉が生み出すもの。

差別。

恐れ。

争い。

そのことを忘れてはならないと、僕は思う。


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太古の昔。それは人が世界を切り分けるノコギリを手にする前のこと。この世界は全てが連続し、絶え間ない揺らぎと循環によって調和を成していた。

全ての生物にとって、生きるも死ぬも等しかった頃。全ての生物に違いがなく、個性があって当たり前だった頃。

神も天国も地獄も無くて、今この星の上に蠢く全ての生きとし生けるものの一部として存在しているという感覚。土も水も風も、全てが「生きている」という感覚。

いや、これは決して過去の話ではない。今も本当はそんな世界が「世界以外」の場所で脈々と受け継がれている。

人が世界と呼んでいるものは、本当の世界の内の何億分の1の部分でしかない。事実、この星の生物の99.7%は植物だということすら知らずに、僕らは庭で野菜を育てたりしている。



僕らは自分の世界を世界の全てだと思い込んで数千年の時を繋いできた。そしてようやく最近になって、山一つ越えた向こう側に、海一つ隔てた向こう側に全く違う世界があることを知った。科学は加速し、それぞれの国や地域に固有の名前や言葉があって、訳すことのできないものがこれでもかと溢れるようになってきた。

でもそれと同時に僕らは、その物事の名前を知らないままにそれを受け入れることができるようになった。その意志や祈りを訳すことのないままに受け継ぎ、未来のどこかの誰かへ語りかけることができるようになった。


それが、写真だ。


刹那を切り取り、その物事に無限の時間と空間を与えることができる、まるで魔法のようなもの。

一枚の写真に対してどう向き合うかによって、生き方すら変わってしまう。そして今、この魔法は誰にでも使えるようになっている。

物は言いよう。捉え方次第で何にでもなる。そんな余白がたっぷり詰まっている写真は、「それ」と「それ以外」にわけてしまわない、つまり白黒はっきりしないというもの。でも実際の世界は、言葉で区切りつくすことができないから、かえって写真の方が世界をよく表していると言えるのではないだろうか。



世界に名前がなかった頃。
僕もまた、その頃の淡い記憶を繋いでいる1人なのかもしれない。


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