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小さな物語

去年の春。

青春を共に過ごしたデジタル一眼を売って、僕はフィルム写真家になった。


「フィルム写真家」なんて職業は実際には存在しない。

けれどもそう名乗りたいのは、僕があえてフィルムで撮ることにこだわっているからだ。



僕がフィルム写真に興味を持ち始めたのは、数年前にフィルムブームが再燃し始めた頃。

「フィルムで写真を撮ってみたい。」

初めはそれくらいの、単純な好奇心だった。


運のいいことに、元々写真をやっていたおじいちゃんからフィルムカメラをもらった。

フィルムで撮った写真はどれも良くて、消去するものがない。

ピンボケでも、多少暗くても、消せない。
むしろ大切な思い出。

そうして色んな写真を撮っていくうちに、僕は、逆に写真を削除することに対して違和感を覚え始めた。フィルムで撮る写真は、最初から最後まで物理的に1ロールで繋がっているものだから、途中でどれかを切り抜いて捨てることはできない。


今までは、同じようなカットを何枚も何十枚も撮影して、削除しては選ぶという作業を夜な夜な繰り返していた。少し本格的に写真を撮っている人なら何となくわかるはず。

でも、フィルムで写真を撮るようになると、デジタルカメラで撮る写真も変わる。

可能性を追求しなくなった。

撮る枚数も激減した。

そして、ファインダー越しではなく、ちゃんと自分の目で見て、肌で感じて言葉で対話しようと思えるようになった。

そうやって同じ時間と空間を過ごした人との大切な思い出が、たったの12枚しかないなんて。フィルムは泣いても笑っても12枚しか撮れない。

でも、後から見返して現像した時に、100枚撮っていても最終的に12枚になることもある。じゃあ結局は12枚あれば十分ということではないだろうか。


そう。

僕が違和感を覚えていたのは、”たくさんあるものから選んで捨てる”という行為だ。

要はいいものを選んで悪いものは捨てる。
取捨選択ってやつだ。

一見何の問題もないように感じるが、僕の中でこれは今の社会の在り方をよく反映しているなと思った。

選ばれた物よりも、選ばれなかった物の方が多いのが世の常。
大量生産大量消費の社会経済はそうして回っている。

写真はただのJPEGではない。
そこに思い出や時間がたくさん詰まっている。

生きている。

写真を通じて、何十年前の人と会話することもできれば、何十年も先の人に思いを託すこともできる。

だからできるだけ無碍にはしたくないし、優劣はつけたくない。
生きているものを捨てるなんて、僕にはできない。


自分なりに今の社会に対して警鐘を鳴らそうという思いを持って、僕は「フィルム写真家」になろうと決めた。

カメラが家電になる時代。
写真は削除する時代。

そんな機械みたいな社会になってほしくないなぁ。


(220301)

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