みんなで生きる。
「自分は何者でもない。」
と、認めたくない人は多いと思う。
自分が“ふつう”であるということに遅かれ早かれ気づく人は多いのではないかと思う。
少なくとも僕は、僕のことを“ふつう”の人間だと思っている。特に誇れる部分もなければ、世に名を残すほどの才能もない
でもこれは悲観でも諦めでもない。ただ自分を許し、認めてあげるということ。
そんな風に考えるようになってから、自ずと世界は拓けていき、こんなにも多くの命が溢れていることに気がついた。
何者かになろうともがき苦しんだあの頃。
SNSのプロフィールに簡単な自己紹介と画像と自分の名前や愛称を添えて、まるで自分は世界で唯一の存在なんだと言わんばかりに、他人のそれと睨めっこする。
たしかに、世界に同じ人は一人もいない。でも似ている人は山ほどいるし、同じ経験や感情を持ったことがある人は、これだけたくさんいる人類なのだから絶対に0ではない。
オンリーワンじゃないことは、悪いことじゃない。“ふつう”であるということは、むしろ安心できるということ。
世界で自分だけだなんて不安だし、しんどい。そんな風にして世界から自らを切り分けようとせずに、いっそ世界に溶けて馴染んでしまえばいいと、僕は思う。
「あぁ、君も同じこと考えてたんだ。」
って、全然違う人生を生きてきた人に言われると、なんだか不思議な気持ちになる。
性別も、国籍も、年齢も、仕事も、あらゆることが違うはずなのに、なぜか共感できることがある。
歴史を学んでいると、自分と同じことを考えている人がたまに現れたりする。世の中や、時代は違うけれど、結局人間は人間なんだ、と。ホモサピエンスは何万年も進化していない生物なんだと実感する。
そうして共感できるということは、繋がっているということ。
みんなが繋がっていて、結果的に共有している感覚や眼差しや祈りがあるとき、人を取り巻く環境はあまり関係ない。時を超えて、場所を超えて、二人を超えて、繋がっている。
そんな風に繋がっていることを前提として、日々を暮らしてみる。
すると、今この瞬間にお互いの感情や思いを共有していることが如何に尊いかということに気がつく。
一枚の写真を見て感動したり、同じご飯を食べて美味しいと感じたり、たわいもないことで笑い合ったり。
みんな“ふつう”なのだから、自分も“ふつう”でいい。
そうしてみんなで生きていけばいい。
(220224)
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