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家族介護者の支援について、改めて考える⑨評論の新人賞への応募

 いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます
 おかげで、こうして書き続けることが出来ています。

 初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。

 この「家族介護者の支援について、改めて考える」は、家族介護者へ必要と思われる、個別で心理的な支援について、いろいろと書いてきました。

 そして、その必要性を感じながらも、相談窓口が広がっていかないことに対して、自分自身ができることは限られていますし、微力なのも分かりながらも、変化しないことに対して、無力感を覚えながらも、8回に渡って考えてきました。

 今回は、家族介護者の支援について、少しでも広く伝えようと考え、「評論の新人賞」へ応募した話です。

新人賞の公募

 自分の能力を超えているのは分かっていたのですが、評論の賞に応募しようと思ったのは、臨床心理士になって4年目、家族介護者の心理的支援は、ボランティアも含めたら、5年目になっていた頃でした。

 家族の介護を続けながらも、自分としてはベストを尽くしていたはずですが、介護者支援の仕事と、介護者の支援の必要性を伝えることが、うまくいっていませんでした。社会に少しでも浸透させることもできず、さらには、自分の仕事も増えずに焦っていたと思います。

 評論を書くのは無理とは思いつつも、少なくとも、誰かが読んでくれれば、それで、少しでも家族介護者への心理的支援の必要性が分かってもらえるかも、という気持ちがありました。

 さらには、「介護離職ゼロ」などと政策としても言われるようになっていたことも、微妙な焦りになっていました。もちろん「介護離職」はしなければしない方がいいと思います。それでも、どうしても仕事を辞めざるを得ない人は少なくないはずで、「介護離職ゼロ」と言いすぎて、「介護離職」が、まるで悪いもののように扱われ始めそうになっていたことも、この評論の賞に応募した動機になっていたはずです。

 2018年に応募して、当然のように落選しました。

 それでも、今読んでも、自分が書いた課題のようなものは、まだ解決されていないように思いましたので、改めて、このnoteに投稿しようと考えました。

 ただ、どこか意気込み過ぎて、攻撃性も感じさせる部分もありますので、途中から有料noteにし、傲慢かもしれませんが、興味がある方だけ、読んでいただければ、と思いました。

 よろしくお願いいたします。

(以下から、応募した評論になります。引用した文献・資料については、評論の最後にあります。厳密には「評論」にはなっていないかもしれません)。


『家族介護試論 ー 介護に専念する者はあってはならない存在なのか 』

 わりと最近、知り合った人に、自分がしている家族への介護の事を話さなくはいけない時があった。

 その時に、仕事を大幅にセーブしても、介護を優先している。午前5時過ぎまで起きている昼夜逆転の生活を、休みなく続ける、という介護をしている自分の状況を、伝える羽目になった。

 その生活に、不意をつかれるように「優雅」という形容詞が、何の悪気もなく、つけられた。それに対して、反射的に軽い怒りがわいたが、そのことで、その相手を責める気持ちもないし、相手に悪気がないのも明らかだし、何より自然な感想でもあるから、怒りは反射的におさえこみ、伝わらない努力をいつものようにしたから、おそらく相手には分からなかったとは思う。

 ただ、久しぶりの感覚だった。

 こうしたことは、介護を始めざるを得なかった1999年から時々あったし、それは悪気がない、という共通点があったし、基本的には関係ない人にとっては、「介護」という言葉自体が遠さを感じさせ、というよりは、できたら関係なくいたい、といった気持ちもあるのは無理もないという印象だった。

 そして「介護」について、まだ関係ない人の多くから聞いたのが「介護はみんなの問題だから」という言葉だった。でも、そうした様々な事への違和感は、私も介護を始めなければ気がつかないことだったはずで、家族介護に「優雅」という形容詞がつけられるということは、介護保険施行から20年近くがたっても、介護を巡る言葉が、単純にまだ貧しいということではないか、と改めて感じた。

 介護を始めてから、専門家や当事者以外の、誰かと、きちんと介護の話をした、という印象はない。話した、というよりは、聞いてもらった、という記憶がないのだろう。いつのまにか、できたら、話したくない、と思うようになっていた。いつ頃からだろうか、と振り返ると、わりと介護を始めた最初の頃からだった。それは聞かれて答えて、という中で、話さなければよかった、という経験を蓄積したせいだった。

介護にまつわる言葉

 介護保険が始まった2000年の頃からだったけれど、「がんばらない介護」という言葉が、先端の思想みたいに扱われていて、まるで「がんばっている介護」が、愚かだ、と言わんばかりにも思えた。

 さらに、最初は母と義母の介護をしていた状況から、母を亡くしたあと心理学を学び始め、臨床心理士になってからも、家族介護のことを語る時には、「一人で抱え込まない」ということや、一人で介護をして、それが実の親子だと「共依存」という言葉で語られることもあるのに気がついた。

 様々な苦難があって、一人で介護せざるをえなくて、介護負担の重さに耐えかねて、やむなく仕事を辞め介護に専念する場合が多いはずで、(自分もそうだったが)それでも、その関係に「共依存」と、異常な人間関係みたいに言われるのは、おそらくはかなり耐え難いことではないか。少なくとも、そのような見方をされて支援されることは拒否したくなるようなことではないか、とも思えた。

 また、似たような状況に対して「介護依存」という言葉さえ投げ掛けられることもあり、これに関しては、「そもそも快がないのに」という反射的に感情の反発が起こったりもした。

 介護をしているというと、必ず、言われる「老老介護」も、問題とは思えなかった。親が介護が必要になったり、ましてや配偶者が要介護者になるような場合であれば、自分自身が高齢者になっていることも珍しくない。

 だから、問題は、「老老介護」ではなくて、「老老介護」が問題になってしまう環境にあるのに、とは思えた。そして、こうした「がんばらない介護」「一人で抱え込まない」「共依存」「介護依存」「老老介護」という言葉は、専門家と言われる人たちから投げ掛けられることが多かった。


当事者の言葉 

 それでも、当事者である、こんな言葉に対して、まだきちんと分析されていないのではないだろうか。

 介護中は、私が母を支えていてこそすれ、母に支えられているなどとは爪の先ほども思わなかった。
 しかし介護を終えてようやく「人」という字の意味が心からわかった。
 介護は支えあいなのである。

 ここまでは一般的であるといってもいい。というよりは、当事者以外の外部からも聞かされる言葉でもある。
 そして、ここから一見、不思議な言葉の意味のつなぎ方になる。

 私がここで言いたいのは、さきに書いたようなきれい事は現在介護中の家族には通用しないということである。介護家族を支えようという気持ちのある人であるなら、専門職であれ、ボランティアであれ、簡単にそんなことを介護家族に向かって言わないでほしいということが言いたかったのである。

 なぜ、自分も納得した言葉を、介護中の人に伝えてはいけないのか。

 もし、こうした事が開かれた議論として、なるべく遠くまで届かせることが出来たら、それは家族介護とは何か?が少しでも理解されるのではないだろうか。

 そんな素朴すぎる思いに過ぎないが、自分の未熟と無力を自覚しつつも、家族介護論を試みようと思った。

家族介護者の気持ち

 今では「認知症」と呼ばれるようになったが、「痴呆」というのが一般的な呼ばれ方である頃、実際に介護をしている家族しか知らなかったような痴呆老人の姿が、初めて社会に広く知られるようになったのは、有吉佐和子の「恍惚の人」(1972)だったと思われる。

 小説はベストセラーとなり、さらに、テレビドラマになり、映画にまでなった、という事は、かなりその後の認知症のイメージに大きく影響を与えたといってもいい。

 さらに、そこから10年以上の時間がたっても、助川(1989)は“茂造の老いはどう描かれているか。異常食慾と、家を出て何処となくあてどなく歩き回る(=徘徊)、記憶喪失、幻覚、痴呆、失禁、人格欠損ーあらゆる面伏せなわれわれ自身の未来が、仮借なく描き出されているが、とりわけ次の三つの場面が、それを代表している”“姑の葬式の夜に、娘の京子から取り返した蟹の肉を茂造がむさぼり食う場面”“次には茂造が亡妻の骨を深夜にかみくだく場面”“三番目は茂造が排泄物を畳になすりつける場面である”と書き、その結論に近い部分では“基本的に現代では常識になりつつある老人問題の深刻さを、小説の形で社会に警鐘を鳴らしたのは、この作品が先駆的な意義を持っているのではないか”と書いている。あくまでも、中心的な関心は、認知症の老人に向いている印象である。

 だが、“この作品が介護にあたる嫁の昭子の眼から描かれていることはあきらかで” “『恍惚の人』は老人文学である以上に老人介護文学なのだが、老残への恐怖として読まれ、介護負担の重さとして読まれた形跡はない”(上野 、1998)と指摘がされたのは、そこからまた10年がたつ頃だった。

 上野は、さらに論を続け、老人介護文学として1995年の「黄落」と比較し、高齢化の問題が注目されるようになったのは最近である、という貴重な指摘をしつつも、全体の印象は“介護負担を「娘や次の世代までの女性」が担うのは、願い下げである”(上野,1998)ということに集約される。

 女性が介護を担うのが当然、という思想はもちろん間違っているし、上野の主張は納得のいくことではあるものの、「恍惚の人」にすでに描かれていた、以下のような複雑で微妙な「家族介護者の気持ち」までの言及はない。

昭子は溜息が出た。日中は門谷家の主婦の言葉に義憤を感じたりしたけれど、今は、これからいつまでこんな暮らしが続くのかという絶望感で一杯だった。茂造が死んでくれたらどんなに楽だろう。そんな考えに罪悪感も後ろめたさも、もうなかった。「すまんな、いつも」と言った夫の言葉さえ思い出すと腹立ちになる。本当にすまないと思ったら、信利は昭子と交替すべきではないか。嫌なことはみんな妻に押しつける。これが家庭における亭主の実態だ。昭子は煮えくり返る胸を抑えながら、門谷家のお婆ちゃんの謂う「壊れた男」を眺めていた。

 もしかしたら、今もこの「家族介護者の気持ち」に関しては、明確に説明されていない可能性が高い。家族介護の現場には、40年前に、とても強い光が当てられていたはずなのに、確かに大勢の人が見たはずなのに、分かられないままのことはあるのかもしれない。

 たとえば、次に引用するような、介護してきた家族の施設入所に際しての、家族介護者の気持ちの説明も、まだ十分に明確にされていないのではないだろうか。

 男性と女性の職員の方が迎えにきてくれました。嫌がる父を後ろから抱きかかえるようにして、車に乗せてくれたのです。その姿は、羽交い締めにされて、引きずられていくように見えました。もう、言葉になりません。これだけはしたくなかった、こんな場面だけは見たくなかったという状況が目の前に展開されていたのです。父が乗った車の後ろから、私は主人と一緒に車に乗ってついていきました。涙が止まりませんでした”。“あれからもう三週間が過ぎました。しかし、気持ちの整理はついていません。とにかく残念でたまらないのです。住み慣れた家で、最期まで暮らしてほしかった。それができなかった。させてあげられなかった自分が腹立たしくて。頭のなかで、そんな想いがぐるぐると回っています。この気持ち、介護を経験した人でなければ絶対に理解できないと思います。

 この著者は、この連載を最後に介護をしている父を残して、亡くなってしまった。

 著名人である父・丹羽文雄を介護していたこともあり、書く場所も、講演として話す場所もありながら、まだ「介護を経験しないとわからない」ということを書いている。それだけ、当事者にとっても、説明しがたいことではないか、と思われる。

“「介護殺人」事件は”“1998年に24件、1999年に29件、2000年に39件、2001年に29件、2002年に37件、2003年に40件”(加藤 、2005)という報告があり、さらには“介護・看病疲れを動機とした殺人事件は、統計のある2007年の30件から46件、49件、55件と毎年増加している”(東京新聞 、2012)。

 介護殺人や心中、全国で179件…2013年以降、ほぼ週に1件のペース。(読売新聞 2016・12・5より)という現実と、家族介護者の気持ちが十分に理解されていない事とは、やはり少しは関係があるのではないだろうか。

「夜と霧」

 「夜と霧」を読んだのは、まだ心理学の勉強も始めていない時、著者が高名な心理学者という事もロクに知らないまま、家族介護を始めて、たぶん数年がたった頃に読み、不遜だったり、傲慢だったりするのかもしれないが、自分で驚くほど共感的に読んでいたのは覚えている。

 突然、危機的な状況に巻き込まれること。負担がずっと続くこと。そして、その日々がいつ終わるのか分からないこと。言葉にすれば、そんなことなのだろうが、別の著作でフランクルが記している、こんな言葉を、我がことのように感じたのも事実だった。

 フランクル(1993)は、“誰もがいつ終るかを知らなかったからです。それが、ひょっとすると、強制収容所のなかで一番気分がふさぐ事実の一つでさえあったかもしれないというのが、仲間たちの一致した証言です”と指摘している。


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