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介護の言葉⑥「介護は支えあい」と、言わないで欲しい。

 この「介護の言葉」シリーズでは、家族介護者に対して使われたり、また、介護を考える上で必要な「言葉」について、改めて考えていきたいと思います。

 今回は、第6回目になります。どちらかといえば、家族介護者ご本人というよりは、支援者、専門家など、周囲の方向けの話になるかと思います。よろしかったら、読んでいただければ、ありがたく思います。 

「介護は支えあい」と、言わないで欲しい。

 今回は、少しわかりにくのですが、ある家族介護者の方の言葉です。

「介護中は、私が母を支えていてこそすれ、母に支えられているなどとは爪の先ほども思わなかった。
 しかし介護を終えてようやく「人」という字の意味が心からわかった。
 介護は支えあいなのである」
「私がここで言いたいのは、さきに書いたようなきれい事は現在介護中の家族には通用しないということである。
 介護家族を支えようという気持ちのある人であるなら、専門職であれ、ボランティアであれ、簡単にそんなことを介護家族に向かって言わないでほしいということが言いたかったのである」

 この文章を書いた人は、「認知症の人と家族の会」という、家族介護者の自助グループとして長く活動を続けてきた会の代表理事も務めた高見国生氏ですが、ご自身のお母様の介護をした経験にもとづいた話を、ここでは書いています。

 この文章は、少し複雑な構造になっています。
 まず、自分は、介護の経験から、こう思った、が来ます。
 そのあとに、介護の経験から、こう思った、ことは、現在、介護中の人には言って欲しくない、結論になっています。

 どうして、このような構造になっているのか、について、著者自身の詳細な説明というのは、されていないように読めました。ただ、これを読んだ時に、比較的スムーズに読めて、確かにそうだし、ここは大事なことだし、介護中の人に言ってほしくないのも本当だと素直に思えました。

他の介護者のことを、言われた時の気持ち

 私自身が介護中に、ある地方の市長の話を何度も言われたことがあります。
 妻の介護のために、任期中の市長をやめて介護に専念し、そのことは、大きな話題になり、確か演劇にまでなりました。

 まだ、男性の介護者も珍しい頃でしたから、私も男性ということで、その話を、見習うべき例として、伝えられたことは、何度もあります。こういう人もいるんだから、がんばって、みたいな善意のアドバイスみたいなものだったと思います。
 私は、介護を始めた頃は、30代後半でしたから、年上の方は、そうしたアドバイスをしたくなるのかもしれません。関心を持ってくれたり、励まそうとしてくれたり、という気持ちはありがたいものでした。
 ただ、市長をやめてまで、介護をしている男性がいる、というモデルケースを聞くたびに、すごくモヤモヤしていました。

 その人は、私よりもかなり年上の人です。そして、市長まで務めているのですから、こういう言い方が、すでにひがみが入っているとは思うのですが、社会的にも成功しているのだから、やめても実績は残る人です。

 わたしは、まだ何もしてないのに、仕事もやめざるをえなくて、無職になって、介護に専念していましたから、その人を見習うこともできないし、生活そのものがどうなるのか分からないし、介護が終わった後に生き残れるかどうかも分からないので、考えないようにしていました。

 私自身の状況に対して、仕事までやめるなんて、それは、おかしいんじゃないか、といったことは言われても、ほめられたことは、ほぼありませんでした。それは、異常な行動のように見られていたように思います。 そういう人のことを言われても、私には無理です。

 そんな気持ちを秘かに思っていました。

 どんなことでも同じなのかもしれませんが、自分と同じような困難な状況を乗り越えた人の話をもっとも辛いときに、聞かされても、どうしたらいいのか分からないと思います。

 そして、これは、屈折した見方なのかもしれませんが、こんな可能性もあります。言ってくれる方は、善意かもしれませんが、その時の、辛い中にいる自分という存在は、かなり暗いと思います。それは、周囲の人にとっては、そういう姿はあまり見たくないので、できたら「前向きな」、その人を早く見たい、といった気持ちもあるのかもしれません。

 さらには、乗り越えたあとのことを言われるということは、今、現在の辛い中にいる自分を、否定されたような気持ちになっていたのかもしれません。これは、前回の「そのうち、いいことあるわよ」(リンクあり)と近いことかもしれません。


 この市長が、のちに著書で、自分のことをモデルとして、他の人に押し付けないでほしい、といったことを書いていて、本人は、おそらくそのことを理解していたのではないか、と思います。そして、それは、冒頭の高見氏の『「介護は支えあい」を言わないでほしい』といったことと、つながることかもしれません。

精神科医の見方

 とても辛いことがあって、そのあとに、それを乗り越えることで成長する、ということは、一般的な常識としても、広く知られていることだと思います。

 それがあるから、辛い中にいる人に対して、乗り越えたら、いいことがあるのでは、といったことを言いたくなる気持ちも自然かもしれません。

 ただ、精神科医で大学教授の宮地尚子は、こんな見方を提示しています。

「外傷後の成長」(ポスト・トラウマティック・グロウス)という言葉もあります。つらい体験をしても、それと向き合い乗り越えることで、成長につなげ、人間としての豊かさを広げることです。こういった考え方は、外から押し付けられると、つらくなってしまいます。元気に回復しない被害者を責めるという、本末転倒な使い方をされることもあるかもしれません。けれども、被害者個人の努力のみが求められるのでなければ、とても重要な考え方でもあります。 

 これは、家族介護者にそのまま当てはめることはできないかもしれませんが、冒頭の「介護は支えあい」だけど、「そのことを簡単に言わないでほしい」になるのは、それが「外から押し付ける」という行為に近いせいではないか、と考えられます。 
 冒頭の高見氏は、自分自身で気がつき、深いところで自然と理解にいたったのであって、その結果だけを取りあげて、善意とはいえ、伝えられた人には、押しつけられる、という感覚になってしまうかもしれません。高見氏も、本人が自然と獲得したので、意味があるのだと思います。

 そして、いろいろな場所で描かれている「前向きな介護者」を見習いなさい、といったことを言われているとしたら、それは、本当に辛い押しつけになっている可能性もあります。

 もともと、「前向きな介護者」であっても、「辛い介護のあとに豊かさを獲得した人」は立派だとは思いますが、それでも、そういう人たちであっても、おそらく「介護で辛い時」は、暗く重い状態でいる可能性が高いのでは、とも思います。

 その辛い状況を乗り越えられるとしたら、その未来のモデルを示すのではなくて、その辛い状況の負担や負担感を、具体的に、どう減らすかということが、支援につながるのだと思います。


 また、ガン専門の精神科医・清水研氏は、がんになった患者の、悲しみに関して、このような見方をしています。

 病気になって今まさに悩んでおられる方々には、「悲しみを経て成長しなければならない」とは決して思わないようにしていただきたいと思います。無理に前向きになろうとすることは、傷ついている自分をさらに鞭打つようなもので、決してご本人のためにならないと思います。 

 これは、ガン患者の方のための話なので、家族介護者に当てはめるのも直接は無理とも思えるかもしれませんが、悲しみや苦しみにいる方にとっては、「無理に前向きになろうとすることは、傷ついている自分をさらに鞭打つようなもので、決してご本人のためにならないと思います」は、ここまで述べてきたことと、つながると思います。

 困難を乗り越えた方の言葉を伝えるということは、それが善意であるとは思うのですが、結果として「前向きであることを望んでいる」というメッセージになりえます。それを受け取った側は、とてもそんな体力も気力もない状況である場合は、「傷ついている自分をさらに鞭打つ」ことを促す可能性もあります。

 だから、「言って欲しくない」になるのではないでしょうか。

艱難辛苦、汝を珠にす

 介護を始めて、仕事もやめて、どのくらいたった頃か、はっきりと覚えていませんが、そんなに余裕があるわけでもないのに、ふと思ったことがありました。

 有名なことわざ、というか、格言みたいなものです。

 艱難辛苦、汝を珠にす

 ややこしそうな漢字の並びですが、辛い経験や、大変なことが、その人を、本物にしていく、みたいな意味で、苦労が人を成長させる、みたいな話でもあります。

 この語源は、はっきりしないのですが、私自身は、この言葉が、人が、サンドペーパーみたいな「苦労」とか「辛いこと」で磨かれていくような印象がありました。それは(たま)という響きにひっぱられすぎているのはわかりながらも、そんな風に憶えていました。

 でも、介護で何が何だか分からないような時期を、知らないうちに通り過ぎて、介護状況は変わらないのに、少し慣れたせいか、この「艱難辛苦、汝を珠にす」の解釈が、違うんだ、と急に思ったことがありました。


 あくまで、個人的な感覚に過ぎませんが、「苦労」とか「大変なこと」に襲われることは、もし、魂がかたまりのようなものとすれば、その表面をサンドペーパーのように磨くみたいなことではなく、大きな刀みたいなもので、魂の3分の1くらいは、ざっくりと切り取られていたように思いました。

 たとえれば、魂は死ぬ寸前だったみたいです。だけど、魂は、大きさは、3分の2くらいになってしまったけど、その切られた「傷口」から、新しく肉みたいなものが出てきているように感じ、それはとても新しいもののはずで、どこかぴかぴかしたイメージでした。

 自分が「本物」になった感じはまったくしませんでしたが、自分の魂の質自体が変わったように思いました。自分の成長は棚におくとしても、これが、「艱難辛苦、汝を珠にす」ということかもしれない、と思えました。だけど、これは、ちょっと何かが違っていれば、本当に死んでいたかもしれない、と改めて思い、そういえば、介護で辛い頃は、よく「死にたい」と思っていたことも、やっと思い出せるようになりました。

 この例えは、最近、古くて評判が悪いらしいですが、「ドラゴンボール」の主人公・孫悟空が、強い敵と戦い、死ぬ思いをしたあとに、強くなる、という感じが、フィクションですが、なんとなく実感として分かったような気もしました。

違う場所からの言葉

 冒頭に戻って、「介護は支えあい」ということを実感として分かった著者・高見氏は、介護が終わった後に、そのことを感じています。それは、いわば「日常」に戻ってきて、その場所で思ったことと言えます。
 
 その時に思ったことは、確かに本当のことなのは間違いないと思います。
 ただ、それは、別の場所でも述べたので繰り返しになりますが、介護生活は、例えれば、いつも小さく揺れている海の上で、要介護者と一緒に小さな船に乗っているような状況は、いってみれば「非日常的な場所」です。

 その場所に向かって、しっかりした地面である「日常的な場所」の言葉を届けようとしても、それは難しい、ということだと思っています。

 だからといって、何も言ってはいけない、ということではなく、「日常的な場所」で、よかれと思ったことは、「非日常的な場所」では、全く違うものとして伝わってしまう、ということを、少し考えていただきたいということだと思います。


 今回も、特に専門家の方には、抵抗感がある内容だったかもしれません。さらには、分かりにくいことだったとは思いますが、今回は、これで終了です。

 ご質問、ご意見などございましたら、コメント欄などでお伝えくださると、とてもありがたく思います。



(他にもいろいろと介護について、書いています↓。クリックして読んでいただければ、ありがたく思います)。

「介護の大変さを、少しでもやわらげる方法」⑦自分がコントロールできることをする。

介護に関するリクエスト②「サービスを利用するようになってから、不安感が増えました。どうしてでしょうか?」。

介護books⑥ 「介護」を、もっと広く深く考えたい方に、手に取って欲しい6冊

「家族介護者の気持ち」

「介護の言葉」

介護離職して、介護をしながら、臨床心理士になった理由



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 この記事を読んでくださり、ありがとうございました。もし、お役に立ったり、面白いと感じたりしたとき、よろしかったら、無理のない範囲でサポートをしていただければ、と思っています。この『家族介護者支援note』を書き続けるための力になります。  よろしくお願いいたします。