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『「介護時間」の光景』(168)「穴」。8.8.

 いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして書き続けることができています。

(※いつも、この「介護時間の光景」シリーズを読んでくださっている方は、よろしければ、「2001年8月8日」から読んでいただければ、これまでとの重複を避けられるかと思います)。

 初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。


「介護時間」の光景

 この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、私自身が、家族介護者として、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。

 それは、とても個人的で、断片的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。

 今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2001年8月8日」のことです。終盤に、今日「2023年8月8日」のことを書いています。


(※この『「介護時間」の光景』では、特に前半部分は、その時のメモをほぼそのまま載せています希望も出口も見えない状況で書かれたものなので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば、幸いです)。

2001年の頃

 個人的で、しかも昔の話ですが、1999年に母親に介護が必要になり、私自身も心臓の病気になったので、2000年に、母には入院してもらい、そこに毎日のように片道2時間をかけて、通っていました。妻の母親にも、介護が必要になってきました。

 仕事もやめ、帰ってきてからは、妻と一緒に、義母(妻の母親)の介護をする毎日でした。

 入院してもらってからも、母親の症状は悪くなって、よくなって、また悪化して、少し回復して、の状態が続いていました。
 だから、また、いつ症状が悪くなり会話もできなくなるのではないか、という恐れがあり、母親の変化に敏感になっていたように思います。

 それに、この療養型の病院に来る前、それまで母親が長年通っていた病院で、いろいろとひどい目にあったこともあって、医療関係者全般を、まだ信じられませんでした。大げさにいえば外へ出れば、周りの全部が敵に見えていました。
 ただ介護をして、土の中で息をひそめるような日々でした。私自身は、2000年の夏に心臓の発作を起こし、「過労死一歩手前。今度、無理すると死にますよ」と医師に言われていました。そのせいか、1年が経つころでも、時々、めまいに襲われていました。それが2001年の頃でした。

 周りのことは見えていなかったと思いますが、それでも、毎日の、身の回りの些細なことを、かなりマメにメモをしていました。

2001年8月8日

『午後4時30分頃、病院に着く。
 母と一緒に杏仁豆腐を食べる。

 メモに「修学院」の文字。

 「桂離宮のそばにあったのよ」と話をしてくれる。

 「窓閉めること」とも書いてある。

 今は、窓が開いていて、セミの声も聞こえてくる。

「朝方は、ひぐらし。昼間は、あぶら。夕方から、またひぐらしなのよ。不思議」

 この母の病室へ来るときに、病棟で母が友人になった患者さんが手を振ってくれた。ここの病院で知り合いになった人たちのことや、昔の自分が働いていた時の話とか、結構話をした。

 夕食まで、ずっとしゃべっていたかもしれない。

 母の疲れが気になったし、昔のことは、少し繰り返しが多くなってきたので、聞いている方が、少し集中が切れている。

 午後5時30分頃、食事。

 いつも使っていた病室を出て、左側のトイレではなく、右隣のトイレを使っているらしい。

 朝の出来ごとを聞いたら、スタッフに「写真だと、可愛いとか、からかったりするのよ」と笑って話をしていて、その内容も安定していたから、どうやら大丈夫そうだった。意味が分かりにくいことを言っていないので、少し安心して、気持ちが軽くなる。

 午後7時頃、病院を出る。

 駅に着いたら、人身事故で止まっている路線があるのを知る。いつもと違う帰り方をしたら、運賃が安くなった』。

 帰りの送迎バス。

 座っている席の上に空調を調節する、小さい丸い羽みたいなものが2つあって、そこに手を伸ばして、「開」や「閉」や、回して風の方向を変えたりも出来るはずなのに、今日の席の上には、羽がついてなくて、ただ暗くて深い2つの穴があいているだけだった。

 前にも同じことがあって、でも、それからしばらく忘れていた。たぶん、実際よりもはるかに深くて暗く見える。

                          (2001年8月8日)


 それからも、その生活は続き、いつ終わるか分からない気持ちで過ごした。

 だが、2007年に母が病院で亡くなり「通い介護」も終わった。義母の在宅介護は続いていたが、臨床心理学の勉強を始め、2010年に大学院に入学し、2014年には臨床心理士の資格を取得し、その年に、介護者相談も始めることができた。

 2018年12月には、義母が103歳で亡くなり、19年間、妻と一緒に取り組んできた介護生活も突然終わった。2019年には公認心理師の資格も取得できた。昼夜逆転のリズムが少し修正できた頃、コロナ禍になった。

2023年8月8日。

 今日は、曇りで、急に雨が降ってくるようだけど、なんとか洗濯はできそうだった。

 かなりたくさん洗濯物があったけれど、なんとか一回で終わりそうだ。

洗濯機

 洗濯が終わって、しばらく時間が経って、今日は、出かけようとしていた頃に、電話があって、妻が出てくれる。

 電気屋さんからで、この前、洗濯機の一部が壊れて、修理をお願いして、一回、その部品を持ってきてくれたら、ホースが短かった。だから、向きを変えて使っていたのだけど、延長のホースを届けられるという内容だった。

 まだ洗濯物が入っていますが、と妻が聞いたら、水が出てなければ大丈夫です、と言われたらしいが、やっぱり、洗濯機の中はない方がいいのでは、と思って、あわてて干し始めた。

 その上で、いつも干している場所は洗濯機の近くだから、それをどかした方がいいのでは、と、妻にも言われ、干してから動かして、とやっているうちに、クルマが止まった。

 まずは、洗濯機の向きを変える。

 ちょっと違うだけで、その周囲の印象は変わっていて、やっぱり、長年のレイアウトはしっくりくる。

 それから、持ってきてくれた延長のホースを、すっとさりげなくつけてくれて、ホースは長くなって、以前のように使えるようになった。

 ありがたい。

墓参り

 今日は、ずっと空き家になっている実家に行く用事と、その近くのお寺へ行って、両親の墓参りと、お塔婆代の支払いもしなくてはいけない、と思うと、出かけるまで、かなりおっくうな気持ちになり、それでも、昼過ぎには家を出ることができた。

 乗り換えて、本を読みながら時間が進み、久しぶりに乗った路線は、懐かしいというよりも、ずっと変わらない感じがする。

 駅を降りると、暑い。

 そこから、また久しぶりにバスに乗って、目的のバス停で降りる。以前より、少し位置が変わったようだ。

 お寺のそばのホームセンターで、花を買って、お寺でお塔婆代を納め、お線香の火をつけてもらってから、墓へ向かう。

 丘の上。太陽がただ当たっている。

 セミの声が聞こえる。

 線香を置いて、墓石に水をかけて、たわしで磨く。花を入れるところに水は溜まっているけれど、かなり温度が高い。それを捨てて、新しく手桶で持ってきた水を入れる。

 花を供える。

 一通り終えてから、手を合わせる。父の命日と近いけれど、もう30年近く前になる。

 母が亡くなってからは、15年以上が経った。

 空が広かった。

実家

 両親が亡くなり、誰も住まなくなってから、かなりの年数が経ったけれど、事情によって、今も同じ場所にある。

 だけど、時々、行って、ポストの郵便物を整理したり、家の中に風を入れたり、庭の樹木や草花を伐採したり、いろいろとやることはある。

 今日も、庭の樹木が思ったより伸びていたり、チャドクガが発生しそうになっていたり、梅の枝が電線にかかりそうになっていたり、南天はまた伸びていたりして、思ったよりも、伐採するところは多くなった。

 気がついたら、2時間くらいが経っていて、信じられないくらい汗をかいていた。

 それでも無事に一通り終わって、ほっとした。

 体を使ったような気がした。



(他にも、介護に関することを、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。




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