『「介護時間」の光景』(197)「サンダル刑事」。3.11。
いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして書き続けることができています。
(※この「介護時間の光景」シリーズを、いつも読んでくださっている方は、よろしければ、「2001年3月11日」から読んでいただければ、これまでとの重複を避けられるかと思います)。
初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
私は、臨床心理士/公認心理師の越智誠(おちまこと)と申します。
「介護時間」の光景
この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、私自身が、家族介護者として、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。
それは、とても個人的で、断片的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。
今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2001年3月11日」のことです。終盤に、今日「2024年3月11日」のことを書いています。
(※この『「介護時間」の光景』では、特に前半部分は、その時のメモをほぼそのまま載せています。希望も出口も見えない状況で書かれたものなので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば、幸いです)。
2001年の頃
個人的で、しかも昔の話ですが、1999年に母親に介護が必要になり、私自身も心臓の病気になったので、仕事をやめ、介護に専念する生活になりました。2000年に、母には入院してもらい、そこに毎日のように片道2時間をかけて、通っていました。妻の母親にも、介護が必要になってきました。
母の病院に毎日のように通い、帰ってきてからは、妻と一緒に、義母(妻の母親)の介護をする毎日でした。
入院してもらってからも、母親の症状は悪くなって、よくなって、また悪化して、少し回復して、の状態が続いていました。
だから、また、いつ症状が悪くなり会話もできなくなるのではないか、という恐れがあり、母親の変化に敏感になっていたように思います。
それに、この療養型の病院に来る前、それまで母親が長年通っていた病院で、いろいろとひどい目にあったこともあって、医療関係者全般を、まだ信じられませんでした。大げさにいえば外へ出れば、周りの全部が敵に見えていました。
ただ介護をして、土の中で息をひそめるような日々でした。私自身は、2000年の夏に心臓の発作を起こし、「過労死一歩手前。今度、無理すると死にますよ」と医師に言われていました。そのせいか、時々、めまいに襲われていました。それが2001年の頃でした。
周りのことは見えていなかったと思いますが、それでも、毎日の、身の回りの些細なことを、メモしていました。
2001年3月11日。
『午後4時30分頃、病院に着く。
病室の机の置いてあるノートに母は日記のようなものを書いてあるのだけど、12日(月)まで書いてあって、内容は書いていない。その日付けと、曜日は合っているけれど。
持ってきて小さい冷蔵庫に入れたジュースは減っていなかった。
4月11日は、母にとって、俳句の行事がある日のようで、そのこと自体を覚えているけれど、「病院からは行けないわよね」と言っている。この話題は、何度も何度も繰り返しているから、それほど大事なことかもしれないけれど、でも、行けないのも本当だった。
そういえば、今日、病室に着いたときは、母は部屋の中のイスに座って、うなだれるように寝ていた。「あしたのジョー」の最後のシーンのようだった。
母は、時々、わからないことを話す。
「夜中は、水飲んでる。ジュース飲んじゃいけないんでしょ」。
「この前までよく飲んでたし、問題ないんじゃないの」と答えると、
「そうかしら」と、不思議そうな顔をしていた。
そのあとは、ずっと話を普通にしていて、その間、ずっと目のまばたきが多かった。
少し遠くから「うー」という声。誰かに言うわけでもなく「ごめんなさい」と繰り返す声。
午後7時55分。バスターミナルから発車するバスに乗って、駅に向かった。それから家に帰っていく』。
サンダル刑事
電車に乗っていて、意味なく浮かんだタイトル。
「サンダル刑事」
デカ、ではなく、けいじ、の方がいいかな、と思った。
(2001年3月11日)。
それからも、その生活は続き、いつ終わるか分からない気持ちで過ごした。
だが、2007年に母が病院で亡くなり「通い介護」も終わった。義母の在宅介護は続いていたが、臨床心理学の勉強を始め、2010年に大学院に入学し、2014年には臨床心理士の資格を取得し、その年に、介護者相談も始めることができた。
2018年12月には、義母が103歳で亡くなり、19年間、妻と一緒に取り組んできた介護生活も突然終わった。2019年には公認心理師の資格も取得できた。昼夜逆転のリズムが少し修正できた頃、コロナ禍になった。
2024年3月11日。
天気がいい。
起きて、洗濯をする。
洗濯物を干して、昼食を食べて、それから出かける予定だった。
実家
隣の県にある実家に行く。
父が亡くなり、母は介護が必要になり、病院に預かってもらい、その後、母も亡くなって、空き家になった。
それでも事情があって、その実家はそのままになっているが、その保全のために、時々行って庭の草花や樹木を切ったり整理したり、家の窓を開けて空気を入れ替えたりしてきた。
10年以上、その作業をしてきて、今日は、部屋の中で残されていた写真の整理をした。思ったよりもたくさんあったし、時間があちこちにいっている写真が一ヶ所にまとまっているから、混乱もしているけれど、自分の家族の写真が多かったからつい見てしまうし、自分が知らない出来事や、知らない人の多さにも、不思議な気持ちになる。
外から見る実家は、明らかにかなり古くなっている。
原点
時々、悲しくなるのは、この10年間で、もっと社会に、家族介護者の心理的支援への理解は広がるはずだったのに、そうなっていないし、すでに支援者の一人となっているから、自分の力不足も感じる。
もちろん自分だけでどうすることもできないけれど、でも、時々、無力感にとらわれて、悲しくなる。
それでも、ふと、毎日、ほんの少しでもよりよい心理士(師)になれるように生活する、という原点は忘れないように、と思う。
自分の力が上がらないことには、どうしようもないからだ。
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そういう毎日を、できる限りきちんと送れるようにしないと、と思う。
(他にもいろいろと介護のことを書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。
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この記事を読んでくださり、ありがとうございました。もし、お役に立ったり、面白いと感じたりしたとき、よろしかったら、無理のない範囲でサポートをしていただければ、と思っています。この『家族介護者支援note』を書き続けるための力になります。 よろしくお願いいたします。