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『「介護時間」の光景』(188)「新しいバス」。1.13。

 いつも読んでくださっている方は、ありがとうございます。おかげで、こうして書き続けることができています。

(※この「介護時間の光景」シリーズを、いつも読んでくださっている方は、よろしければ、「2002年1月13日」から読んでいただければ、これまでとの重複を避けられるかと思います)。

 初めて読んでくださっている方は、見つけていただき、ありがとうございます。
 私は、臨床心理士/公認心理師越智誠(おちまこと)と申します。


「介護時間」の光景

 この『「介護時間」の光景』シリーズは、介護をしていた時間に、私自身が、家族介護者として、どんなことを考えたのか?どんなものを見ていたのか?どんな気持ちでいたのか?を、お伝えしていこうと思っています。

 それは、とても個人的で、断片的なことに過ぎませんが、それでも家族介護者の気持ちの理解の一助になるのではないか、とも思っています。

 今回も、昔の話で申し訳ないのですが、前半は「2002年1月13日」のことです。終盤に、今日「2023年1月13日」のことを書いています。

(※この『「介護時間」の光景』では、特に前半部分は、その時のメモをほぼそのまま載せています希望も出口も見えない状況で書かれたものなので、実際に介護をされている方が読まれた場合には、気持ちが滅入ってしまう可能性もありますので、ご注意くだされば、幸いです)。

2002年冬の頃

 個人的で、しかも昔の話ですが、1999年に母親に介護が必要になり、私自身も心臓の病気になったので、2000年に、母には入院してもらい、そこに毎日のように片道2時間をかけて、通っていました。妻の母親にも、介護が必要になってきました。

 仕事もやめ、帰ってきてからは、妻と一緒に、義母(妻の母親)の介護をする毎日でした。

 入院してもらってからも、母親の症状は悪くなって、よくなって、また悪化して、少し回復して、の状態が続いていました。
 だから、また、いつ症状が悪くなり会話もできなくなるのではないか、という恐れがあり、母親の変化に敏感になっていたように思います。

 それに、この療養型の病院に来る前、それまで母親が長年通っていた病院で、いろいろとひどい目にあったこともあって、医療関係者全般を、まだ信じられませんでした。大げさにいえば外へ出れば、周りの全部が敵に見えていました。

 ただ介護をして、土の中で息をひそめるような日々でした。私自身は、2000年の夏に心臓の発作を起こし、「過労死一歩手前。今度、無理すると死にますよ」と医師に言われていました。そのせいか、1年が経つころでも、時々、めまいに襲われていました。それが2001年の頃でした。2002年になってからも、同じような状況が、まだ続いていました。

 周りのことは見えていなかったと思いますが、それでも、毎日の、身の回りの些細なことを、メモしていました。

2002年1月13日。

『夢を見た。

 なぜかきれいな女性と一緒にいる。それが誰かはっきりとはわからないのに、ぼんやりとした幸福感だけはある。

 目が覚めた。

 妻の体調が良くないので、一人で病院へ出かける。私も体がだるい。

 午後2時30分頃、家を出る。

 いつもと違う駅に着き、そのそばの花屋で、花を選ぶ。

 チューリップの黄色い花を買った。

 午後4時40分頃、病院につく。

 つい2日前、ここに入院してから初めて外出できて、比較的、近くの神社へ行ったことを覚えていて、「この前は、楽しかったね」と母は笑顔だった。

 よかった。

「コージーコーナーも、おいしかったね」まで覚えてくれていた。

 外出をして母の疲れが気になっていたのだけど、思ったよりも母は元気そうで、よかった。テレビもついていて、相撲をずっと見て、うれしそうに話もしている。

 昼間は、駅弁の番組を見たことまで話をしてくれて、なんだかよかったと思う。

 さらに、この病院で、誰が辞めたかどうかも知っていて、なんだか感心もする。

 トイレは、午後5時20分に、また行く。午後5時30分にも行く。

 夕食は30分で終わって、すぐにトイレに行く。

 病室の机の上のメモに「ニューイヤーコンサート 小澤征爾」だけではなく、曲名なども書いてある。テレビでそのコンサートを見たそうだ。

 またトイレに行って、10分経っても戻ってこないので、呼びに行く。

 それから、母の指の爪を切った。

 午後6時35分頃に、またトイレに行って、そのあとにスタッフにトイレットペーパーをもらって、またすぐにトイレに行った。

 そのあと、病室に看護師さんがきてくれて、1日のトイレの回数を聞かれたら、「14回」と母は迷いなく答えていたが、数が増えているようだ。

 買ってきた黄色いチューリップは、母が喜んでくれた。

 この前、外出して神社に行ったことを、俳句にしていた。2句つくって、紙を縦長に切って、壁に貼ってあった。

 やっぱり、いろいろと出かける前は迷ったりもしたのだけど、出かけてよかったのかもしれないと改めて思った。

 午後7時に病院を出る』。

新しいバス

 バス停に行くと、先に親子連れが並んでいた。バスを待っている時に、いろいろしゃべっている。

「つかれた。すごいつかれた」。

 母親の、そんな言葉。男の子は、それでも、ずっと話をしている。

 バスが来た。
 親子が乗り込み、私も乗る。

「このバス、新しいね。新しいにおいがする」。

 母親の反応はあまりなかった。

 すいているバスの座席に座ってからも、男の子はまだしゃべり続けている。

「早く、動かないかな。
 早く、動いてくれ」。

                                       (2002年1月13日)


 それからも、その生活は続き、いつ終わるか分からない気持ちで過ごした。
 だが、2007年に母が病院で亡くなり「通い介護」も終わった。義母の在宅介護は続いていたが、臨床心理学の勉強を始め、2010年に大学院に入学し、2014年には臨床心理士の資格を取得し、その年に、介護者相談も始めることができた。
 2018年12月には、義母が103歳で亡くなり、19年間、妻と一緒に取り組んできた介護生活も突然終わった。2019年には公認心理師の資格も取得できた。昼夜逆転のリズムが少し修正できた頃、コロナ禍になった。


2024年1月13日。

 寒い。
 午前9時前には出かける。

相談

 今年に入って何度目かの相談業務。

 こうした仕事をするたびに、もっと相談やカウンセリングや面接の質を上げられないだろうか。そして、自分としても、もっと、こうした仕事をする機会を増やせないだろうか。

 そんなことを反省とともに思う。

 本当であれば、こうした仕事が必要ないほど、日常が平穏で豊かであればいいのだけど、残念ながらそうもいかないとすれば、心理士(師)が仕事として、その能力を発揮する場所を、この社会に増やしてほしい、などと思うけれど、資格をとって10年経ったが、なかなかそうもいかないことも分かってくる。

 自分自身の努力や工夫や頑張りだけではどうしようもないことも多いけれど、今年も自分がやれることをやっていくしかない。そのために日頃、心がけていることもある。

この道を志し、歩み入ったならば、自分の中の知見(これはただの暗記でなく、自分の経験と知識に照合し、自分の中を潜らせて、自分のものとして納得し、使いこなせるものになっている)を豊かにするべく不断に努め、安易に自分の生の感情に自分を委ねるのではなく、考える、その結果生じる感情を大切にする、という態度を磨いていくことが求められていると思われるのです。

(「心理療法とは何か」より)

 帰りは夕方になった。

 いつもは、まだ少し明るい時間帯のはずなのに、空が暗くて、黒い。

 雨が降っている。

 珍しく雷鳴まで聞こえる。

 電車に乗ったら、ドアの上の小さい画面で、雪が降るかもしれない、という天気予報を見た。




(他にも、介護のことをいろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。



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