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就労支援日記㉔~家族の役割/家族の中の役割~


 今日はこのような有意義な会合(不登校とひきこもりの当事者、ご家族、支援者の会)にお招きいただきまして、ありがとうございます。
 ただ与えられたテーマが『家族の役割/家族の中の役割』ということでして、その難しさの前にややひるんでおります。家族というテーマは、誰も関係を持つことがないということがない、つまり誰もがすでに関係してしまっていることがらなので、どこからどう語っていいのか、とても難儀するテーマなんですよね。
 なので今回は、具体的な家族のあり様ということではなくて、家族の原理ってなんだろう、という視点でお話させていただければと思っています。個別のご相談などは、この後お時間をお取りしますので、そこでよろしくお願いいたします。

「自分ー家族ー社会」 

 さてまず最初に、自分を取り巻く世界を「自分―家族―社会」という項目で分けてみます。
 「自分の世界」というのは、簡単に言えば自分の欲望(あれが食べたい、遊びたい…)や感情の世界ですね。もっといえば、自分の夢(願望や理想)を生きられる世界です。
 「家族の世界」というのは、二人称の世界。つまり父、母、兄弟姉妹など、取りかえることができない関係、つまり特別で固有の世界。時間軸で捉えれば、生老病死に関わる、つまり人間の宿命や運命に対する「あるがまま」をさらし合う世界といえると思います。
 「社会の世界」はルール、マナー、常識の世界。教育や労働という分野で言えば、能力的評価の世界であり、肩書の世界といえるんじゃないでしょうか。

 先ほど「自分―家族―社会」という順番でお話しましたが、この順番って、けっこう僕たちが無意識的に描いている図式だと思います。自分が中心にいて、その周りに家族がいて、そのまた外周に社会がある。それを平面で捉えれば、「自分―家族―社会」となる。
 ただこれを、家族についてかんがえるときに、この図式からかんがえると、家族の大変な部分、というかはっきりいえばどうしようもない部分がうまくとらえられないように思います。それで、まずはこの順番から考察していきたいと思います。

「しがらみ」としての家族

 誰しも生まれたときには、なにがしかの家族の中で生まれてきます。生まれてきた本人にとって、まず目に映るものは母親や父親など「家族」なんですね。自分という意識が生ずる以前に、まず家族と出会うわけです。
 本人が次第に成長し、家族の中でいろいろなことを体験しながら、まぁ特に大きいのが葛藤や矛盾だと思いますが、自分という意識が芽生え、自分なりの「夢(願望や理想)」を描こうとする。そして夢を追いながら、そして夢と折り合いをつけながら社会の中で生きていく。
 この辺のことを絡めて図式化すれば、「家族―自分―社会」となる。でもこれで終わりかといえば、そうじゃない。誰もが老いるわけですよね。するとここで介護などというかたちで、改めて家族が登場してくる。より正確に言えば「家族―自分―社会―家族」となる。
 ところがね、先ほど生老病死と言いましたが、そう誰しも病気になるんです。すると、ここでもまた家族が登場してくる。なので「家族―自分(家族)―社会(家族)―家族」という、ちょっと薄気味が悪いくらいの図式ができあがる。
 善かれ悪しかれ、家族とは、誰もが生誕から死まで逃れることのできない、その人の「あるがまま(生老病死)」と関わる、根源的な「しがらみ」といえるんだと思います。だからどこそこの学者さんがいうように、あっさりと割り切れるようなものじゃないんだよ、ということを抑えておく必要があるんです。

 

社会の原理と家族の原理

 ここからが今日のテーマの本題に入っていくんですが、家族の中で大切なことと社会の中で大切なことは、原理的に異なるんじゃないの、ということです。
 繰り返しになるかもしれませんが、家族は、誰もが取りかえのできない固有の人々の集まりであり、生老病死というその人の「あるがまま」の姿をさらし合う関係の場所です。
 ところが社会は、学校や会社が典型ですが、目的に応じて集い(契約という観念ですよね)、ルールに基づいて運営され、能力によって評価される関係の場所です。
 本来、家族と社会はまったく異なる「原理」で機能しているはずです。ところが世の中の流れは、社会の価値観(大切にしていること)がそのまま家族の中に持ち込まれてしまっているというか、家族の価値観を侵食してしまっている。学校の成績によって親が兄弟姉妹の誰かをエコヒイキするなんて、まさにそのものですよね。
 不登校やひきこもりのもんだいをかんがえてみるとき、自分たちの家族が大切にしようとしている中に、どれくらい社会の価値観が紛れ込んでしまっているか、一度冷静に振り返ってみてもいいような気がします。 

家族と孤独

 最後に「家族の中の役割」について、述べてみます。
 家族とは、なんらかの役割でできている集合体です。
 婚姻や血縁にまつわる役割としては、母、父、長男、次男、長女、次女、祖父、祖母…などですね。
 同時に家族には「共同体」としての役割があります。介護や看病、育児。より細かく分ければ、買い物、調理、掃除、ゴミ出し…、などなど。うん、うんと肯かれているお母さんがおられますが、日本の場合は女性にこの負担を圧しつけ過ぎです。共同体としての家族という機能は母親が一手に背負い込んでいるという、歪んだ構図があります。
 それで、ここから結論じみた話になっていくのですが、社会的な能力評価と家族の中での役割は、本来無関係なはずなんです。だって、原理がそもそも異なっているのだから。そうかんがえていけば、家族の中でなんらかの役割があれば、そもそも誰しも「孤独」ということになることはない。
 不登校やひきこもりについてかんがえるとき、僕のような現場の立場からすれば、不登校やひきこもりという事象そのものについて論じてもあまり意味がないんじゃないかと思っています。むしろ大切なことは、そのご本人がそこで言いようのない孤独感に苛まれていないかどうか。
 子どもが不登校やひきこもりで困っているというご家族の方、もししたらその子が家族の中でなんの役割のない、いわば「真空」のような立場に置かれていないか、もう一度振りかえってみていただきたいのです。これはたぶん、家族にしかわからないし、できないことなんだと思います。

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