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はっきりした物語はスッキリするのか?

 なぜそうなったのか、どうしてこれなのか、いつ、どこで、誰が? そんなはっきりしたことがわからないままの物語はモヤモヤする。なぜなら物語は「知りたい」から見ようとするのだから。その「知りたさ」を満たすのが物語だ。わざわざきっかけを作って。「こんなキャラクターがこんなことをしますよ」と観客や読者を誘って。だから、なにかしらが明らかにならない物語は、必ず誰かしらの不満を買ってしまう

 でも、どうしてそんなにわからないことがイヤなのか? というよりも、物語の中に隅々まで不明がないようにするのが、製作者の義務だとするのはどうしてなのか。まるでまったく不明がないことこそが、物語の最高であるかのように思えてしまう理由はどこにあるのだろうか。

 むしろ、細部まで事細かに決まっていて、そしてそれがいちいち示される物語は「窮屈」だ。実のところそれは、つまらない物語である。

 全部説明されるのはつまらない。そして細部まで完璧な物語もつまらない。あらゆる物事、感情、進行、展開、現象に因果があって、それらが全て納得がいって、しかも過不足なく示されている。そんな完璧さは、物語にはいらないのだ。
 実は、物語というものの面白さは、その完璧さにはない。なぜなら完璧さとは「それ以上知る必要がない」「もっと知りたくなる要素がない」ということだからだ。物語が知識欲を満たすための娯楽とすれば、それは「未知」を提供し、「解き明かす」ことを指す。そのためには、全てが示されていてはいけない。

 加えて、全てがきちんと繋がっていたり、整理されていたり、原理がしっかりしていたり、そしてそれが示されていることは、物語の「勢い」を殺す。確かに、何時何処で誰が何をどうしてどうやって……は気になる。理由と行動が、原因と結果が納得言った結びつきがなければ、観客や読者は首をひねってしまう。
 でも、そんなことよりも、目の前で巻き起こっている出来事。「これからこのキャラクター達はどうなるんだ?」ということ。その答えがエキサイティングで、ワンダーたっぷりで、楽しくて、面白いことがまず第1でなければならない。
 細かな理由付けは、それらを必ずしも補強するとは限らないし、むしろ足を引っ張ることさえある。だから、はっきりしなくていいのだ。はっきりしたところで、スッキリするとは限らないから。そしてスッキリすることが、物語を楽しめる要因とは限らないのだから。

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