見出し画像

我慢は「楽」で「簡単」だ

 我慢
耐え忍ぶこと。こらえること。辛抱。「彼の仕打ちには―がならない」「ここが―のしどころだ」「痛みを―する」

デジタル大辞泉

 それが褒められようが、そうでなかろうが、「我慢」をしたことのない人はいない。人生の中で、何度も訪れる「我慢しよう」という機会。「我慢しなさい」という言葉。多くのきっかけによって、私達は我慢を強いられるし、選択する。
 なぜ、我慢は選ばれるのか。それは様々な理由があると言われる。その理由によっては、我慢はしなくてもいいとか、した方がいいとか、いろんなふうに語られる。たとえば、辛いことからは逃げれば良く、我慢してはならないとか。若いときの苦労は買ってでもした方がいいから、我慢しろとか。辛くなったらすぐにやめられるから、今は我慢してみたら、とか。

「我慢」というものへの「耐える」「辛抱する」というイメージから、それをすることによって経験になったり、反対に負荷がかかったりという意味を、私達は読み取る。でも我慢は、本当はもっと、違うものとして、この現実に存在しているのだ。

 つまり、私達は、「楽」だからこそ、我慢をしてしまう。

 それは確かに、耐えたり辛抱したりするかもしれない。でも、そうであっても「我慢」は、結局のところ楽なのである。どんな辛いことがあろうが、我慢することは結局、簡単で手軽で、何より労力がかからない。工夫もいらない。つまり、言ってみれば「何もしない」。
 それを楽と言わずして、なんと言うだろうか。動き続けること、考え続けることにうんざりした私達は時として、どんな物事にであっても我慢を選択する。
 不当な立場や、不利な条件、危険な状況、狂った価値観。それらは時折、放置され、改善がなされず、後々になって「なんとかすればよかったのに」と言われる。
 言うのは簡単である。それは当人たちにとって、大変なアクションなのに。それと同じだ。私達にとって、「何かをする」は本当はやりたくないことだと自覚せねばならない。だから改善など二の次になるのだし、自身にとって不利益だったとしても、往々にしてまず、我慢が選ばれてしまうのである。

 誤解を恐れずに言えば、我慢とは怠慢である。けれど、もちろんそれは、やってはいけないことではない。また、時として我慢しなければならないことがあるのも事実である。でもそういう時、既にその「我慢」は、我慢ではなく、もっと戦略的な「耐え忍ぶ」「様子を見る」「経験を得る」といったことに変わっている。
 それ未満の「何もしない」は、ただの我慢と言える。そしてついつい選択しがちなアクションだ。我慢とは、実際のところ「楽だから」というきっかけで始まるもの、そのように捉えておいたほうが良い。
 どんな理由をつけたとて、それは「楽」で「簡単」で「労力がかからない」。そんな選択が「我慢」の本質である。けしてそれが、イコール「耐え忍ぶ」とか「こらえる」ことに繋がらないことを、私達は気に留めておいたほうがいい。
 それよりはまずは、物事に前向きに、しっかりと対処する方法を模索するべきなのだから。

※このテーマに関する、ご意見・ご感想はなんなりとどうぞ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?