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語り合うはバトルじゃない。でもそう思ってしまう

 人の意見に意見することがバトルだと思われているのは悲しい現実である。ある文化においてそれはバトルではなく、議論を深める適切なプロセスであり、必須の行為だ。
 しかしある文化ではそれは他者への攻撃、あるいは権利の侵害とみなされてはばかられる。つまり「議論を戦わせる」という言葉通り、それはいらぬ争いとして遠ざけられるものとなっている。

 どうしてそのようなことが起こってしまうか、というのは、そういう文化だからとしか言いようがない。しかし今、この地球は文化の混在が起こっている。インターネットや交通の便利によって、人々の交流は活発になって久しい。もはや文化とは、村のものではなく人のものである。つまりそれは、ある限定された地域やコミュニティというよりは、それを構成する人々が作り、あるいは思い込んでいるルールの1つに過ぎない。
 とすれば、人の意見に意見することがバトルだ、という認識は絶対ではない。それを気にしない文化があるということは、それは別にそうでもないということだ。
 むしろ、このように交流が簡単で当たり前になった世の中だからこそ、意見は必ず食い違うし、しかし、全員の幸福のための正解はあるはずである。そのために意見同士を見比べ、検討し、「正しさ」というものがあるとするのならばそれを求めていくという行為は、もはや逃れられない人の生だ。
 戦うことを恐れるなというのではない。
 それは戦いではない。

 そもそも様々な考え方があるという前提のもと、確かにそれらは尊重されねばならないが、しかし、より良いものというのはあるはずである。そう思えることこそ重要で、それは、必ずしも誰かの意見を採択するということではなく、テーブルについた全員で作り上げる意見であっても良い。
 むしろそうやって、高みへと向かって協力していくことが、本来の「意見を戦わせる」ということの目的である。
 バトルではない。
 コミュニケーションなのだ。

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