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満月の夜にまぼろし【一二〇〇文字の短編小説 #7】

十代最後の夏の夜だったと思う。まぼろしのような出来事だった。

東京の大学に進学したばかりのぼくは、小ぶりな公園のベンチに座って缶コーヒーを飲みながら煙草をふかしていた。イタリアンレストランのアルバイトからの帰りで、ちょっとした疲れを癒したかった。

遠距離になって、恋愛はうまくいっていなかった。携帯電話が一般的ではない時代だ。関西の地方都市に残った恋人との電話の数は次第に減ってきていた。恋人はいつも会えない寂しさを訴えてきたけれど、ぼくは話せるだけで十分だった。いつかの夜、恋人は「このまま終わってしまうかもって不安なの」とか細い声で言った。ぼくは「要らない心配だよ」と答えた反面、いずれそうなるかもしれないと思っていた。歯車が噛み合わない車輪では前に進んでいけない。

何本目かの煙草を吸い始めると、目の前に女性が立っていた。肌の色は透き通るように白く、猫のように丸く大きな目でぼくを見つめていた。胸のあたりまで髪が伸びている。ぼくの目はノースリーブの水色のワンピースからむき出しになっている両手の細さに釘づけになっていた。

「煙草を一本くれる?」と彼女は言った。慌ててポケットからケントの箱を出すと、なかは空っぽだった。もう残りがないことを詫びるや、彼女はぼくの口から煙草を奪い、ゆっくりと煙を吸った。それから煙をゆっくりと吐きながら、「今日は満月よ」と言った。ぼくは空を見上げ、「本当だ」と答えた。彼女はぼくに煙草を返してきた。

ぼくの隣に座った彼女は「こんな夜中に一人で何をしているの?」と訊いてきた。ぼくはひと休みしているのだと伝えると、彼女は小さく笑い「お互いに孤独ってことね」とつぶやいた。そのあと、彼女は「わたしはこれから仕事。君みたいな少年は知らなくていい職業よ」と話した。ぼくは何も答えず、代わりにどういうわけか恋人とうまくいっていないことを伝えていた。

「物理的な距離が離れたぶん、心も遠ざかっているのね」

「ぼくにはそんなつもりはないんですけど。週に何回か電話で話して、二カ月に一回くらい会えれば、いままでの関係は続けられると思っている」

「でも、君の恋人はそうじゃない。間違いなく、いずれ向こうで新しい恋人をつくるわ」

「女性ってそういうものなんですか」

「女性に限らないでしょ? 君が別の恋人をつくる可能性だってある」

ぼくは確かにと納得した。ノースリーブの彼女は夜空を見上げて「月が綺麗」ととても静かな声で言った。ぼくももう一度満月を見て「本当だ」と言うと、二人のあいだにしばらく沈黙が流れた。気づくと、公園に二匹の猫がいた。

彼女は「そろそろ行かなきゃ」と言ってベンチを立った。そしてぼくの顔をじっと見て「またどこかで会ったら、わたしたちが恋人同士になるのはどう?」といたずらっぽく笑った。ぼくは黙っていた。そのあと、その公園でも近所でも、彼女の姿を見ることは一度もなかった。

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