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連載小説『恋する白猫』第五章・白魔

駅のホームはひとけの失せたその一瞬、水気を失い固く締まって凍りついた雪をホームのそこ此処(ここ)に崩れかけた障壁のように残していた。
そしてそれらはまるで薄汚れて巨大な盛り塩のように今の光(みつる)には見えた。

遠く湖面へと張り出す突堤のように突き出して見える駅のホームも、その先に延び拡がり蛇行しつつもまた交わる線路の行く末すらも、今の光の眼には全てがモノクロームの世界への続きのようにしか見えない。

ホームに在る小さな暖房付きの待合い室を切望した光は濃霧のような白い吐息と共に凍えたその視線の先を巡らせた。
すると何か酷く異形なものがその視界の間(あわい)に一瞬よぎったような気がして彼女は思わずその歩(ほ)を止めた。

それは早春といえども実質、
厳冬と変わらぬ東北の駅の中、
一点だけ鮮やか過ぎる色彩を放つ異様な点景だった。
そしてその鋭利な点景は線路に向かうホーム沿いぎりぎりに無造作に投げ置かれた様子の一束(ひとつか)のブーケだった。

寒風がブーケを覆う玉虫色のセロファンを頻りに叩き、中の花々をさながら鞭打つような不穏な音をたてて震わせているのを見た光はますますその駅を寒いと感じた。
そして腺病質なひとの生理にも近似した粗暴なその原色に光は怖れをなして思わず立ち竦(すく)んだ。

凍りついた駅のホームに一点だけその烈しい蒼はおびただしい存在感となって君臨するかのようで、
弱い吐き気が自身の内側からアルファウェーヴとなって襲ってくることに気づいた光は咄嗟に別方向へと視線を反らし、その振戦する心を立て直すことに成功した。

その時、奥まった駅のベンチに独りの青年が腰掛けていることに彼女はやっと安堵と共に気がついた。
無彩色の駅の中、青年は何の不自然もなくまるで影のように埋没し切っている為、光はそこに彼が居ることにすら、ついぞ気がつかなかった。
青年はやや長い髪をぞんざいに後ろで束ね、その蒼いブーケにただ虚ろな視線を馳せていた。

彼は光に気がつく様子も無く、
凍てついたホームに薄く吐いた紫煙の匂いを棚引く風のようにほんの一瞬光の居る場所にまで強く匂わせた。
都会では電子煙草も生粋の煙草も吸う人は減少の一途を辿っていると言われてはいる。
とはいえ「煙草」を呑む人が居ないわけではない、それどころか喫煙者は今や少数派となりつつあるとはとても信じられない人口にすら思えた。
その煙の匂いはお世辞にも光は好きではなかったが同時に強い郷愁を感じさせた。

ジムで躰を鍛え、健康志向の強い元カレは嫌煙家だった。  
両親も吸わないし気管支喘息を持つ、ひ弱な姉は吸えようもない、 
知り人も家族も吸わないその有害な匂いに何故、こんな懐かしい気持ちなど抱くのか?
光は解らなかった。

黒いキャップを鍔(ツバ)深く被った彼の目元はよくは見えないものの、鋭いほどのやや尖ったその横顔は深く立てたコートの襟に挟まれて、彼のごく僅かな動作によって、まるで光の懇願する心のように不安定に見えつ隠れつした。

口髭と顎髭とを生やしながらも、頭(ず)抜けて色の白いその青年は煙草の煙を燻らせつつあの線路間際のホームに在るブーケを無表情にただひたすら見つめ続けている。

すると以前母が電話で問わず語りにしてくれた娘への鬱陶しいが一抹、興味深い世間話を光はふと想起した。

『今の男の子達ってなんであんなに綺麗なのかしらね、
ちょっと気持ち悪いくらい、
K-POPアイドルの影響なわけ?
やたらとお肌もスベスベでさ、
この間見ちゃったのマツキヨで知らない男の子が真剣な顔して乳液選んでるとこ、
真剣な顔してコンドーム選んでるほうがお母さんまだマシだと思った、こんなこと言うとお父さん怒るんだけどだって健全じゃない?そっちのほうが、
女の子のことちゃんと考えてくれているだけいいじゃない、 
試供品のファンデーションそっと塗ってそんな自分の顔いろんな角度から見て、確かめてる男の子よりお母さんから見るとコンドーム眺めてるほうが解りやすいのよ、ああ男だなぁって、
だってさぁ男の子が好きな男の子ってわけじゃないのよ?
充分過ぎるくらい異性が好きなのに…。
いやよく分からないのよ
お母さんだってあんな真剣な顔して乳液や美容液選んだこと無いもの、私ねぇああいうのあんまり好きじゃない、
まぁこの時代の人間じゃないんだし、
無理も無いんだけど、
光はさ野暮ったくてもイケメンじゃなくてもいいからあんな風にファンデとか、
真剣な顔して塗ったりしない‘’普通の男の子‘’を好きになってね』

青年は顔が遠目に僅かしか見えないのに、その肌理の整いかたや美しい絹のような髪の質など光には手に取るように伝わった。
“もと少年”もだがこの男も一見、むさ苦しく裝ってはいるものの、きっと平素から肌の手入れなど抜かりないに違いない、
‘’もと少年‘’たちは普段は東京やその他の都会で暮らすのであるから身綺麗なのはよく解る、
彼らはほぼ全員タイトで細身のスーツを着込んで垢抜けてはいるが一様一律に同じような鋳型で切り抜かれたかのようだった。
都会で暮らす田舎者とはそういうものだ。
だがこの男はこんな田舎の片隅で稀有な空気をまるで放射能のように放ち、さだめしその為に周りからは遠巻きにされてしまっているだろうに、と光は思った。
一見、小ギタないような格好をしたその若い男の美貌は汚ならしければ汚ならしいほど、かえって底光りするまでに妖しく見えた。

座ったまま短くなった煙草を足元に次々と打ち棄て、それを踏みにじり続ける彼がようやく三本目の煙草に苛々と火を点けた時、幽かにその手が震えていることに光はようやく気がついた。

黒い毛糸の手袋から突き出したその指先は白く露(あら)わで、その指先で煙草を摘んだ彼は小さく尖った顎先を上げ、煙草の煙を薄く上向きに吐くとそれを見たまま一瞬、何かを呟いた。

その横顔に光る涙を発見し、光は彼から目を反らすことが出来なくなった。

次の瞬間、光はここが藤田麻祐子が飛び降り自殺をした駅であることを何故か唐突に理解した。
彼女は毒々しい蒼のブーケから青年へと思わずその視線で空気をえぐるようにして見ると心の中でこう自分に向かって囁いた。

‘’この人が麻祐子さんの…
元カレ?‘’

光は明らかに刺しつらぬくようなこの寒さになど震えてはいない彼の涙をもう一度盗み見た。

光は戦(そよ)ぎ来るさざ波のように彼の中の深い喪失と悲しみ、
恐怖と怒りと不安とを感じ取りながら、同時にその理解不能な確信を揺るぎない野生のように深めていった。 

‘’そうか…こんな奴だったんだ、
お洒落な今どきの奴か、或るいはいかにも田舎のもっと純朴そうな奴かと思っていたけど…‘’
光は思った。
‘’全然異(ちが)う、こんな男、
田舎でも都会でも見ないタイプ…‘’

でもどこがどう違うというのだろう?それは光にはよく解らなかった。だが青年の放つ無自覚の威容に光はふと彼に話しかけてみたい強い衝動に駆られた。

そして彼女は心の中でそんな無謀な自分に危ういブレーキをかけた。
何故ならば光はその抗えない蠱惑にも似た彼への強い関心にあの‘’もと少年‘’の言った言葉をつい重ね合わせてしまったからだった。

あのかつての愛らしい加害者は今も被害者である光にいかにも慕わしげに、馴れ馴れしくこう言った。

『何か言いしれぬものに…
説明なんかつかないものに憧れてしまう時季(とき)って、人間にはきっと等しくあるんだと思う、
それを実行するかしないかは人に依るけれど無自覚のうちにみんなその時を通り過ぎていくのかもしれない、それは例えば途方も無く巨大で聡明さすら持つ悪だとか、一見素直で野放図に見える性であるとか、
……子供の頃から憧れる遠い宇宙の果てのこととかさ』

と同時に光は‘’待ち人来たり‘’’という言葉を想起してしまった自分に気づき、出し抜けに少女時代に返ったような気持ちとなった。
今はもう真には帰れぬあの気持ちの中にたった今自分が居ることに彼女は逆に戦慄した。
童心に返るとよく言われるが、それは同時に秘めたる魔と出逢うという恐怖でもあった。

光は一瞬わずかに自分の中を駆け抜けたその‘’昔の自分‘’という空気や匂いといった何者かに支配され、それを痛いほど懐かしいと感じながらも瞬時にすべてを大人のように拭い去り、子供のように勘づいてしまった。

‘’何を考えてるの?
違うかもしれないじゃない、
私の見間違いかも…
バカバカしい‘’

えずくほど寒いその駅を支配する真冬の中、震えながらただ列車を待ちつつ闇雲に煙草を吸い切ってゆく青年のとめどなく溢れる涙を見て光は思った。

‘’ああ、神様お願い、違うと言って‘’

やがて霙(みぞれ)混じりの雪が降り始めた。
だがすぐに雪はその重々しい水気を失い、突如雹(ひょう)へと移り変わった。そしてホームの先端をまるで打ち砕くような渇いた音をたてて降りしきった。
あっという間にホームの半分以上の面積を大粒の粗目(ざらめ)を撒き散らしたかのような砕氷が覆い尽くした。

それを見た光は凡(およ)そ東北の早春に不用意にもハイヒールなどを履いてきた自分の見栄と愚行とを舌打ちと共に呪わしく思った。

やがて青年は昏い水面下、揺らぐように音も無く近寄づいてきた鯉のようにいつの間にか彼の前に停車した黒い列車へと雹に打たれつつ蹌踉(よろ)めくように乗り込んだ。
痩せて傷ついた馬がギャロップするような長い手足を持て余したその歩様は、どこかおっとりとして光の胸を締めつけた。

列車の扉が彼の前で閉まるその一瞬、青年はずっと俯向き加減だった顔を上げ、駅の隅に座る光と一瞬目が合った。

青年は数秒、光をただ無感動に壁か、中吊りの広告でも見るかのように見つめ返していたがやがて指先の無い毛糸の手袋から突き出したその白い指先で、帽子の鍔(つば)をそっと摘まみ下ろした。
だがほんの一瞬青年の全容を見た光は何故かあの星の輝く真昼の空を見た、と思った。

何故星が真昼の空に光って見えるのか?その理由を識っているのはこの地上で今やあなたと私だけ、
‘’じゃあ…
じゃあ、麻祐子さんをプラットホームから突き落としたのは……
…あなた??‘’

青年を乗せた電車は光の目指す街とは真逆の方角へさながら深海に消える影法師のように去って行った。
俯向いたままの‘’カレ‘’を乗せたまま…

『ただいま…』 

帰宅した光はぐったりと玄関の上がり端に腰を掛けた。
グレージュのハイヒールの踵を握り締めるように自分の足から脱がせると光はそこでようやく深々とため息をついた。

下駄箱の上には花屋で買った室咲きの花なのであろう、
この季節には自然で咲くはずもない芍薬と薔薇、
竜胆に似た白い名の知れぬ花などが長短バランスよくグラデーションをつけるように切り揃えられて剣山を浸した織部の浅い水盤に活けられている。
これが母の言ってた小笠原流というやつか?と光はなんの関心もないままただぼんやりとそう思った。

下駄箱の角(かど)を手のひらが痛むほどつかんで立ち上がると、
彼女はそこに在る一本の口紅を見つけて思わずそれを手に取った。

下駄箱の上の壁には昔からさほど大きくはない楕円形の鏡が掛けてある。
母がよく出かけしな、その鏡に向かって髪の乱れに手をやり、バッグから慌ただしく取り出した口紅をぞんざいに塗り直しその上下の唇を軽くこすり合わせるとバタバタと外へ出ていくのだ。

‘’お母さんのかしら?‘’

と光はその高級口紅を矯めつ眇めつした後にそのキャップを引き抜いて中の棒紅を繰り出すと当然の如くその色を検(あらた)めた。

その口紅は塗っても唇本来の血色に若干の温もりを宿す程度の色づきしかない色調のものだった。
そのため一目でそれは母親のものではなくもっとずっと若い女性の持ち物、つまり姉の口紅だと光は当然のように気がついた。

比較的現代的なその色出しはまったりと濃い牡丹いろの紅をつけたがる母親世代が間違っても買いそうにはない、
こんなつけてるのかつけてないのかよくわからないような曖昧な色、塗っても、口紅つけてる意味が全然ないじゃない、かえって顔色悪く見えちゃうわと母親なら言うだろうと光は思弁した。

こんなところで姉も鏡に向かってルージュを繰り出し、ぞんざいに塗り終えると同時にそそくさと出かけることもあるのだろうか?
だが通常はその口紅をそのままこんなところへ置き去りにしたりはしない、
少なくとも私ならしない、
と光は思った。

『光?…光なの?』
という声がして彼女は声のするキッチンをぞっとして思わず振り返った。

『おかえり、
もうすぐ帰ってくるんじゃないかと思っておにぎり作ったよ、
それともお昼ご飯はもう誰かと食べてきちゃった?』

姉の声は廊下を少し渡った先から聴こえてくる。
光は、キッチンのあるその方角を思わず固唾を飲んで凝視(み)た。
光沢のある細長いスライド面を縦に重ねた硝子の引き戸が僅かに開いている。
薄暗い側廊の先、そこから味気なく白っぽい蛍光灯の光が漏れ伝うのが見えた。
近づくとその波打つ硝子の表面に白い後ろ姿が幾重にも滲んで見えた。
姉は再び声だけで光を誘(いざな)った。
低いが暖かみのあるあの聴き慣れた声だ。

『クラス会どうだった?』

『……』

『楽しかった?』

光はリフォームされて新しく建て付けのよくなったキッチンと廊下の間仕切りの硝子戸を引き開けるとセーラームーンのとうに色褪せた、あの遠い夏祭りで父が買ってくれた暖簾をくぐって中へ入った。
キッチンの中はむっとするほど暖かく味噌汁の匂いが立ち込めたガス台の前にエプロン姿の姉が立ったまま背中を向けている。

『お母さんが言ってたよ、
光ったらクラス会に冷やかしで参加するのよって、
だから言ったの、
いいじゃないそれでも別にって』
その肩が幽かに嗤うように小さく揺れた。

『…お姉ちゃんどうしてこんなに早くうちへ帰れたの?』

姉は振り返らずその冷たいほど端正な横顔だけ光に見せると、その変わらぬ僅かな微笑越しにこう答えた。

『私はずっとうちに居たよ、
今日は気分が悪くて昼まで寝てたけど、お母さんが付きっきりで看病してくれていたから…
昼過ぎ頃からやっと具合がよくなったの』

『…家に?…そう…?』

光は当惑した唇を思わず庇うようにいまだ凍える指先で触れた。

『そうなの…』

『そうだよ、どうして?』

やっと完全に振り返った姉は例の白いレースのワンピースを着て上から黒いエプロンを掛けていた。髪の毛は肩の上で下方に向かって、細い黒のリボンで二つに結わえてある。
彼女はガス台の雪平鍋からよそおった味噌汁の椀を持ち、妹の前に据え置いた。

食卓には既に高野豆腐の鉢、
焼いたシャケとほうれん草を炒めたもの、櫛型に切られたトマト、どこかで習いでもしたのか、関西風の出汁巻き玉子が簀巻きの跡も誇らしげに皿の上に鎮座していた。
いつもならそれをこれ見よがしの態とらしさと感じて眉を潜めるであろう光は、ただ茫然とするだけで頭の中は真っ白だった。

『お姉ちゃんね、
一度光に話しておかないといけないことがあるの、どうしても…
言わなきゃと思いながらずっと言わず仕舞いだった大切なことよ、
光は明日横浜へ行ってしまうから…思い切って話しておきたいと思ったの、
聞いてくれる?』

光は悪夢に魘される想いでただ頷くより他なかった。

姉は疲れているのか?
あるいは体調が悪いのだろう、
母が最近、瞬(まどか)は病んでいるといったのはやっぱり本当なのかもしれないと今更光は思った。

姉の藍を含んだ不思議な黒い瞳の表面に一瞬、あの灰色の瞬膜がよぎるのを見て光は、幼い頃姉がよく言っていた言葉を思い出していた。

『少しずつ光はお姉ちゃんから離れないといけないの、
だってお姉ちゃんはずっとこの世界に留(とど)まってはいられないもの、
でもね今すぐじゃない、
だからもう少し…
もう少し光のことを大好きな、
今の私でいさせてね』

そう言った姉のあの深い悲しみの奥にある朗る過ぎるような笑顔を、光はたった今目の前で見たかのように思い出した。 
そして何故あの人もあんな瞳をしていたのか、今解ったと無自覚に彼女は悟った。





to be continued to episode-6th

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