亀井 孝のアーチェリーノート

アーチェリー選手 亀井孝の娘「Ai」のnote。 2021年8月4日、父が大怪我を負…

亀井 孝のアーチェリーノート

アーチェリー選手 亀井孝の娘「Ai」のnote。 2021年8月4日、父が大怪我を負いました。言葉足らずで不器用な父から毎日届くメールを記録するアカウントです。

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John C. Williams

  1971 York World Championship   1972 Munich Olympic   1972 Gorizia World Field Championship オリンピック、世界選手権、世界フィールド。史上このトリプルクラウンを制したのは、彼とダレル・ペイスの二人だけです。 そこでもう一つ、ヤマハの表4広告のお気に入りを忘れていました。それにしても「美しい」と思いませんか。これが世界チャンピオンという存在です。 Smooth ジョン・ウィリアム

    • ごめんね

      受傷からもうすぐ3年。同じような障がいの方から、「どうですか?」という質問をいただきます。 「まだ死にたい時期です。」 と答えると、なんとなく、それですべて理解してもらえるようです。健常者の方には理解できないと思います。 YouTubeを観ていると、いろいろな情報、例えば、車椅子の乗り方、移乗の仕方、排便排泄、日々のルーティン等など、多くの情報を障がい者自身が、男女や年齢を問わずに発信しています。非常に参考になるのですが、それらを発信している方を見ると、大体が障がい者にな

      • 2006-2007年大晦日

        2006年大晦日は、ノースキャロライナ州ヒッコリーの会員制ゴルフ&スパのクラブハウスでの、ニューイヤーパーティーでした。今はありませんが、競技用オールカーボンシャフトメーカー「AVIA」社社長で友人でもある Kurt・Degener の招待です。 ヒッコリーという町は、シャーロット・ダグラス国際空港から車で1時間ほどの場所に位置するのですが、シャーロットという街は、近年アメリカでは人口増加が著しく、最も先進的な都市のひとつといわれています。そんな近郊ということで、ヒッコリー自

        • 愛は突然に

          車椅子2年目の今年、2試合、いろいろ作戦は考えるのですが、全くうまくいきません。試合に出られるレベル以前の状況です。車椅子のうえで、どうやって射てばいいのかを試行錯誤です。とはいえ、思うようにはいきません。が、それでも練習をしています。そんな状況ですが、車椅子の前は52年間立ってアーチェリーを毎日やっていたので、少しはアーチェリーのことを知っているつもりです。 もちろんうまくなるには、練習しなければなりません。初心者であれば、力を付けて、基本の射ち方、基本のフォームを身に付

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        • Archer Avenue
          5本
        • ホイールチェアー
          1本
        • テクニック
          1本
        • タックルケース
          6本
        • にっぽん昔ばなし
          6本

        記事

          正射必中

          雑誌の表紙のことを「表1」と呼びます。表紙の裏側が「表2」で、一番後ろの裏表紙が「表4」で、そこに載っている広告が「表4広告」と呼びます。一般には一番高額な広告スペースです。 20世紀にアーチェリーをしていた人は、当然覚えているでしょう。「雑誌アーチェリー」創刊以来ほぼ30年、この表4広告をずっとヤマハ(日本楽器製造)がとっていたのです。ヤマハにすればプライドであり、雑誌社にすれば年間契約は大きな安定収入源であり、上得意様です。それを思うと1995年頃から、一時期ではあります

          魔法の板

          誰が考えついたのでしょうか。アーチェリーの道具の中で、唯一の「魔法」です。考えたのはアメリカ人のようですが、日本で使われるようになったのは、1960年代後半です。弓を始めたころ、やっと商品としての「クリッカー」が登場しましたが、最初貧しい日本のアーチャーは、プラスチック定規や金ノコや糸鋸を切って削って、作って使っていました。 なぜ「魔法」かというと、アーチャーにとっての魔法の理由は分かるはずです。取り外せば、魔法は消え失せることから分かるはずです。ではなぜ「魔法の道具」かと

          なにをチャラチャラと

          1976年全米選手権でのスナップです。さて、トレードマークのこの帽子は、誰でしょうか? O.K.・スマザーズ(USA)です。1997年に亡くなられたようですが、1957年第18回プラハ世界選手権のチャンピオンです。この大会から世界選手権は「ダブルFITA」ラウンドになり、男子は90-70-50-30m 144射4日間で行われるようになりました。その最初の世界チャンピオンが彼です。 世界チャンピオンは憧れであると同時に、永遠に敬意を表されます。全米でも、毎年現役選手として参加

          世界チャンピオン

          この写真を見て、誰だかわかるアーチャーは大したものです。 1967年アマースフォルト世界選手権チャンピオン、レイ・ロジャース(USA)です。僕がアーチェリーを始めて、最初に知った世界チャンピオンです。とはいえ、アーチェリーを始めた1969年はバレーフォージ世界選手権で、チャンピオンはハーディ・ワード(USA)の時代でした。 ハーディ・ワードはアマースフォルトでは3位に甘んじているのですが、バレーフォージでレイは7位です。そしてジョン・ウイリアムス(USA)が、2位で197

          廉価版シャフト

          日本には、ハンティングも3Dもない。リカーブもコンパウンドもベアボウも、紙の的を射つターゲット競技しかない。この市場の特殊性を知らなければなりません。アメリカでは、この分野は全体のわずか10%にも満たない小さな市場ですが、日本ではそれが100%です。 そんな日本でアーチェリーをする時、使用するカーボンシャフトの最上位モデルには、たぶん、 Straightness: ± .001” Weight tolerance: ± 0.5 grains per packaged doz

          Junk Arrow

          Kurt が昼飯とショッピングとドライブを兼ねて、アパラチア山脈を見に行こうといってくれました。そんなに遠くはありません、車で1時間ほど西に走れば、ノースキャロライナの人たちが「Blue Ridge Mountain」と愛情こめて呼ぶ、青い峰の山々を一望できるのです。 短いドライブの途中で見つけた、小さなハンティングショップに立ち寄ってみました。もちろん多くの銃やフィッシング用品、そしてアーチェリー用品もありました。そこで驚いたのです。本当に小さなショップ(日本のアーチェリ

          「PRO Select」の名前の由来

          2006年、ノースキャロライナまでシカゴ経由で行った理由は、Kurt Degenerに会いに行くためでした。彼は「AVIA Composites Inc.」の社長でシャーロットに住んでいました。 いつものことながら、確約も取れないままホテルもレンタカーも手配せずに、飛行機の時間だけを伝えての訪問でしたが、空港に自ら迎えに来てくれていました。Kurt とは10年以上の付き合いですが、会うのはこれが初めてでした。Kurt は空港から北西に車で約1時間。ヒッコリーという町に、2匹の

          「PRO Select」の名前の由来

          第二十四回 世界弓術選手権大会

          第4話 前回第3話をアップしたところ、宮田純治氏のご長男、宮田哲明さんからメイルをいただきました。 お父様は1938年生まれとご高齢ですが、元気にされているようです。コロナを機に弓道連盟の仕事などからは徐々に引退し、埼玉の自宅併設の弓道場で指導は続けられ、穏やかにお暮しのようです。 日本のアーチェリーは1956年当時、ヤマハの川上源一さんがアメリカでハワード・ヒルからもらったグラスファイバー製の弓を日本に持ち帰ったところから始まります。源一さんはその弓を社員に渡し、「この

          第二十四回 世界弓術選手権大会

          Archer Ave.

          シカゴは昔、全米選手権がオハイオ州シンシナティーで行われていた頃、乗り継ぎ便の関係で何度か泊まったことはあるのですが、覚えていることといえば、へとへとに疲れて高架鉄道がうるさい場末のホテルの部屋にトランクとアローケースを運び上げ、ベッドに倒れこんでテレビを点けると、トワイライトゾーンがモノクロで映し出されたことくらいです。 そんな懐かしい街に、2006年いつものことながらの、思いつきで行ってきました。とはいえ、この時の目的地はノースキャロライナ州のシャーロットということで、日

          宮田さんの名誉のために

          第3話 1969年、「全日本アーチェリー連盟」独立前夜。1967年アマースフォート世界選手権に、日本代表として7名の選手が派遣されました。 1958年全日本弓道連盟は、FITA(国際アーチェリー連盟-現在のWA)への加盟申請を行い、認められることで名実ともに世界における、日本のアーチェリーを統括する唯一の団体となっていました。洋弓は和弓の傘下にあったのです。そのため、彼ら7名は「全日本弓道連盟」に登録されていました。 その背景には、1964年に行われる東京オリンピックで、

          宮田さんの名誉のために

          1969年(昭和44年)

          第2話 1969年8月、琵琶湖北小松での同志社高校洋弓部の夏合宿です。高校からは中学にはない、新しく始められる運動部に入ろうと、フェンシングかアーチェリーと考えていたのですが、クラブ勧誘で先にアーチェリー部に行ってしまったのが、運の尽き。4月から始めたアーチェリーですが、これが持っている一番古い写真です。 親に「3年間はバイクに乗りません。3年間これでがんばります」からといって買ってもらった、Black Widow TF 66"-37#。高校2年の春には、Hoyt 4pmに

          ストリング

          ストリングの原糸は、必ず「黒」を使う。 ケブラー繊維は元々黄色でしたが、もう50年近く前にケブラーに黒ができてからは、違う原糸を試すのも含め、必ず黒いストリングを使っています。個人個人見え方は違うでしょうが、黒いストリングが一番無意識に弦サイトを感じやすいからです。 昔、ストリングはすべて自作していましたが、ケブラーストリングはよく切れて、1週間に1本は使うので自作はやめて、ヤマハのストリングを使うようになりました。理由はあの頃、全自動でストリングを完成まで作る機械を世界で唯