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long long time ago

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むかしむかし、こんなことがあったでのぅ~
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Precision Shooting Equipment

Pete Shepley には娘さんと二人の息子さんがいるのですが、今回案内してくれた2番目のJon はPSE で働いています。そこでPeteとJon からいろいろな話を聞いたのですが、いかに我々の住んでいるアーチェリーの世界、それもターゲットを中心にした世界がマイナーであり、小さいかを痛感させられました。それをこの紙面、あるいは言葉だけで説明するには限りがあるのですが、たとえば翌々日の26日にクリスマス休暇中のPSE本社を案内してくれました。 PSE はアーチェリー業界に

Earl Hoyt Jr. 1911-2001 Ann Weber Hoyt 1922-2008

ホイットおじさんも、ホイットおばさんも亡くなってしまいました。憧れのEarl Hoyt Jr.、Ann Weber に初めて会ったのは、1976年の全米選手権でした。1982年の全米選手権まで、毎年顔を合わせていたのですが、クリスマスカードが来なくなって久しく、ふと思い出すことがあったのですが、やはり残念です。 彼らは Fred Bear、Howard Hill、Doug Easton、Pete Shepley らと並ぶ、アメリカのアーチェリーを築いてきた伝説のアーチャーです

HOYT/EASTON

Hoytは、すでに「Record Holder」の名を手にしていました。日本が初めて参加した1967年Amersfoort世界選手権 Ray Rogers、1969年Valley Forge世界選手権 Hardy Ward、1971年York世界選手権 John Williams と伝説のアーチャーたちはすべて、木製ワンピースモデル ProMedalist 「4PM」「5PM」を使って、世界記録とともに、世界をリードし、1972年からは、テイクダウン「TD1」で世界の頂点に立

そこに愛はあるのか?

2000年までのアマチュアは金銭はもちろんのこと、弓具の提供も無償で受けることはできませんでした。プロフェッショナルとみなされたのです。そんな中で、ヤマハから弓を貰っていた選手たちがいました。実はあれは、貰っていたのではなく借りていたのです。ヤマハはそれらの選手から借用書と報告書を受け取ることで、全ア連とも承諾のうえで弓を貸していました。日本を強化し、弓を実射テストし、宣伝するための「選手対策」です。 1976年モントリオールオリンピックで白塗りのホイットを使ったダレル・ペイ

競技者規定

ところで、違反しているという、2000年当時の「競技者規定第5条第2項」とは、下記です。 そして2年後、こんなこともありました。 そして現在の「競技規定」はこのようになっています。 「競技規則」に「競技者規定」は載っていません。あまり見る機会がありませんが、ご注意ください。

Powered by KAMEI

ことの発端は、2000年9月に実施された「第14回ヤマハカップアーチェリー大会」での出来事でした。全ア連はリムに「KAMEI」の名前があるという理由で、試合への参加を拒否したのです。この大会は、1971年川上杯時代から30回(年)連続出場の大会であると同時に、その間3度の優勝を飾り、実施要項に明記されている「招待選手」の扱いでした。 上記は事実誤認、誤表記、誤字も含め、原文のままですが、試合に出してもらえないというので、この後、弁護士を通じての何度かのやり取りがあったのです

「原点を忘れないために」

このリムを知っているアーチャーは、少ないでしょう。というより、もう忘れてしまったでしょう。 PRO Select の「YK2002」というモデルです。2002年に作りました。 YKはヤマハ-カメイ、そして2002年を表しています。この年は、ヤマハがアーチェリーの世界から完全撤退した年で、それを忘れないために作ったリムです。あれから22年が過ぎ、日本のアーチェリーも変わってしまいました。日本に弓を作るメーカーがなくなっただけではありません。ヤマハが消えたことで、ヤマハ と

肖像権と版権

あなたが結婚式で、プロの写真屋さんに頼んで写真を撮ってもらったとします。そのプリントした写真をあなたはお金を出して購入するわけですが、写真屋さんは、写真はくれても、ネガまではくれません。なぜなら基本的にあなたを写したという「肖像権」はあなたに存在しても、それを写した「版権」は写真屋さんが保有しているのです。だから写真屋さんは、肖像権を持つあなたの許可を得て版権を利用して商売をするわけです。 このように、肖像権は本来その個人が保有するものであり、スポーツ選手であっても自分の写真

アマチュア

アーチェリーを含め、スポーツの世界で「アマチュア」という言葉は、すでに死語となっています。例えば、我々のバイブルともいうべき「全日本アーチェリー連盟競技規則」の表紙を見てください。そこにある紋章には、「All Japan Archery Federation」の文字があります。実はここには、1999年度版まで「Amateur」の文字があったのです。しかし2000年から、文字が消えました。 「アマチュア規定」の原型は明治から大正に変わる頃にできたようですが、その頃は身分や職種

プロフェッショナル

この広告を、覚えていますか? 1974年に雑誌に掲載された、ジョン・ウィリアムスです。写した場所は東京。今見ると何とも思わないかもしれませんが、これは画期的な出来事でした。この時まで、「選手」が写真はもちろん、名前であっても広告に登場することはなく、メーカーのロゴやステッカーを貼ることも、宣伝することもできませんでした。アマチュア規定違反です。 当時、アマチュアとプロフェッショナルは厳格に区別され、アーチェリーの世界にプロは存在しませんでした。とはいえ、世界で唯一アメリカには

なにをチャラチャラと

1976年全米選手権でのスナップです。さて、トレードマークのこの帽子は、誰でしょうか? O.K.・スマザーズ(USA)です。1997年に亡くなられたようですが、1957年第18回プラハ世界選手権のチャンピオンです。この大会から世界選手権は「ダブルFITA」ラウンドになり、男子は90-70-50-30m 144射4日間で行われるようになりました。その最初の世界チャンピオンが彼です。 世界チャンピオンは憧れであると同時に、永遠に敬意を表されます。全米でも、毎年現役選手として参加

世界チャンピオン

この写真を見て、誰だかわかるアーチャーは大したものです。 1967年アマースフォルト世界選手権チャンピオン、レイ・ロジャース(USA)です。僕がアーチェリーを始めて、最初に知った世界チャンピオンです。とはいえ、アーチェリーを始めた1969年はバレーフォージ世界選手権で、チャンピオンはハーディ・ワード(USA)の時代でした。 ハーディ・ワードはアマースフォルトでは3位に甘んじているのですが、バレーフォージでレイは7位です。そしてジョン・ウイリアムス(USA)が、2位で197

第二十四回 世界弓術選手権大会

第4話 前回第3話をアップしたところ、宮田純治氏のご長男、宮田哲明さんからメイルをいただきました。 お父様は1938年生まれとご高齢ですが、元気にされているようです。コロナを機に弓道連盟の仕事などからは徐々に引退し、埼玉の自宅併設の弓道場で指導は続けられ、穏やかにお暮しのようです。 日本のアーチェリーは1956年当時、ヤマハの川上源一さんがアメリカでハワード・ヒルからもらったグラスファイバー製の弓を日本に持ち帰ったところから始まります。源一さんはその弓を社員に渡し、「この

宮田さんの名誉のために

第3話 1969年、「全日本アーチェリー連盟」独立前夜。1967年アマースフォート世界選手権に、日本代表として7名の選手が派遣されました。 1958年全日本弓道連盟は、FITA(国際アーチェリー連盟-現在のWA)への加盟申請を行い、認められることで名実ともに世界における、日本のアーチェリーを統括する唯一の団体となっていました。洋弓は和弓の傘下にあったのです。そのため、彼ら7名は「全日本弓道連盟」に登録されていました。 その背景には、1964年に行われる東京オリンピックで、